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== 概要 ==
古来より大内という地名は日本各地にあり{{Efn|平安時代の辞書[[和名抄]]の中に[[伊賀国]][[伊賀郡]]大内郷、[[丹後国]][[加佐郡]]大内郷の地名が見られる{{Sfn|太田亮|1934}}}}、そのため以下のさまざまな大内氏が存在する{{Sfn|太田亮|1934}}。
 
; [[清和源氏]][[源義光|義光流]]の大内氏
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== 歴史 ==
=== 出自 ===
[[日本]]の[[武家]]はいわゆる「[[本姓|源平藤橘]]」やその他の中央の[[貴族]]の末裔を称することが多いが、大内氏は百済の聖王([[聖明王]])の第3王子である[[琳聖太子]]の後裔と称している。琳聖太子が日本に渡り、[[周防国]]多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。しかし琳聖太子の記録は古代にはなく、大内氏が琳聖太子後裔を名乗るのは[[14世紀]]以降とされる。「[[日本人|日本民族]]」なるものの成り立ちから考えれば、外来系の諸侯がいたところで不思議ではないが、{{文章が稚拙で意図不明瞭|それがどこまで[[世間]]の「歴史常識」となっているかは疑問であり、外来系と称していながら、怪しいケースは多々あり、外来系を称する系譜をもつ家は、大内氏に代表される[[西日本]]に多い|date=2022年7月}}<ref name="鈴木眞哉"/>。「大内氏」というのは、その居所の広さを時の人が尊んでいったもので、琳聖太子九世の子孫のときから、それを[[名字]]にしたというが、[[福尾猛市郎]]によると、琳聖太子などというのは、この大内氏の先祖に関してしか登場しない名前であり、実在を証明する[[史料]]はない<ref name="鈴木眞哉"/>。大内氏の[[家系]][[伝承]]も[[室町時代]]にできたものとみられ、文献的には[[応永]]年間([[1394年]]から[[1427年]])以前には遡れないというのが学界の多数説である<ref name="鈴木眞哉">{{Cite book|和書|author=鈴木眞哉|authorlink=鈴木眞哉|date=2009-05-16|title=戦国武将のゴシップ記事|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|ISBN=4569709559|pages=11-12}}</ref>。[[江戸時代]]の[[林羅山]]は『[[寛永諸家系図伝]]』において、「[[蜀漢]]の[[劉備]]が中山靖王([[劉勝]])の子孫だといったり、[[北宋]]の[[趙匡胤]]が[[趙広漢]]の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。[[戦国時代 (日本)|日本の戦国武将]]の系図にも同様の例が多い」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=[[林亮勝]]・[[橋本政宣]]・[[斎木一馬]]|date=1980-01-01|title=寛永諸家系図伝 第1|ISBN=4797102365|publisher=[[続群書類従完成会]]|page=14|url=https://www.google.co.jp/books/edition/寛永諸家系図伝_1/hkC4gvzXLqQC?hl=ja&gbpv=1&pg=PP32&printsec=frontcover}}</ref>。
 
一方、『[[新撰姓氏録]]』に[[任那]]系の[[帰化人|渡来人]]として「多々良公(氏)」が掲載されており、この一族との関連性も考えられる{{Sfn|太田亮|1934}}{{Sfn|松岡久人|2011}}<ref>[https://web.archive.org/web/20130609070754/http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03021.htm 《日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 金官王家(金 氏)》] {{ja icon}}</ref>。代々、[[周防国]]で[[周防国|周防権介]]を世襲した[[在庁官人]]の出であること以外、実態は不明である。