「ユージン・スミス」の版間の差分

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水俣病被害者の補償問題は、チッソ (水俣病患者公式初認定当時は新日本窒素肥料株式会社) と日本政府の冷淡な態度のために複雑化・長期化した経緯がある。
 
水俣病の原因が、チッソが[[不知火海]]に排出する排水の中に含まれる[[メチル水銀]]であることが濃厚になり、チッソは[[1959年]]の12月に水俣病被害者にわずかな金額の見舞金を支払ったが、その際に「乙は将来、水俣病が甲の工場排水に起因することがわかっても、新たな補償請求は一切行わないものとする」{{refn|group="注"|乙は水俣病患者家庭互助会を、甲はチッソを指す<ref name="名前なし-pYTL-1yamaguchi143">山口『スミス』p.143.</ref>。}}という一文を挿入し、この条件を被害者に飲ませた<ref name="名前なし-pYTL-1yamaguchi143"/>。実はこの年の10月には、チッソの附属病院の院長だった細川一による猫を使った実験により、排水が原因で水俣病を発症することが実証されていたがチッソはその後も長くこの事実を隠し続けた。実験の事実が明らかになったのは、10年以上後の1970年、水俣病訴訟での証人尋問の中でのことである。この1文が原因となって、後の[[1969年]]になって水俣病患者家庭互助会は2分され、チッソが推す[[厚生省]]への一任派と裁判で決着を付けようとする訴訟派に分裂した<ref>山口『スミス』p.46.</ref>。
 
更に、チッソや日本政府が水俣病患者の認定条件を狭めたため、水俣病の症状が出ていながら患者として認定されない者が出てくるようになった。このことに憤った患者やその家族は、前述の一任派・訴訟派とは別個にチッソと直接交渉を行って補償を勝ち取ろうとする自主交渉派を結成した<ref>山口『スミス』pp.113-114.</ref>。自主交渉派の中心は[[川本輝夫]]・佐藤武春である<ref>山口『スミス』p.113.</ref>。彼等はチッソ水俣工場前で座り込みを行って抗議を行い、1971年12月6日には東京[[丸ノ内]]にあるチッソ本社で座り込みの抗議を始め著名人も彼等を支持するようになった<ref>山口『スミス』pp.115-116.</ref>。