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作家の書いた文章は出典として相応しくないと思います
テレビ番組は出典として不適切
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[[寛永の遺老]]と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。このため、彼らに代わって[[寛文]]6年([[1666年]])には酒井忠清が[[大老]]に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。治世後半には家光期に起こった[[寛永の大飢饉]]の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、[[宗門改]]の徹底と全国への[[宗門人別改帳]]の作成命令や[[巡見使|諸国巡見使]]の派遣、[[諸国山川掟]]の制定、[[河村瑞賢]]に命じて[[東廻海運]]・[[西廻海運]]を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開され、『[[本朝通鑑]]』編纂などの文化事業も行われた。また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には[[蝦夷地]]での[[シャクシャイン]]蜂起や、[[イングランド]]船[[リターン号]]による通商再開要求、[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]による援兵要請などが起こっているが、家光期以来の[[鎖国]]政策が堅持された。この時期には[[伊達騒動]]や[[越後騒動]]など大名家の[[お家騒動]]も発生している。
 
側室の[[養春院|お振]]、[[円明院 (徳川家綱側室)|お満流]]は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため[[将軍継嗣問題]]が憂慮されていたが、[[延宝]]8年([[1680年]])5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、[[堀田正俊]]の勧めを受けて末弟の[[館林藩]]主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。[[享年]]40。死因は未詳だが、急性の病気([[心臓発作]]など)と言われている<ref>[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、2005年5月)ISBN 978-4106101199。また、『[[謎解き!江戸のススメ]]』([[BS-TBS]]、[[2015年]][[3月2日]]放送)でも紹介された。</ref>。家綱の死により、[[徳川将軍家]]の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた。
 
家綱の危篤に際して、酒井忠清は鎌倉時代に将軍[[源実朝]]の死後に宮将軍を迎えた例にならい、[[越前松平家]]と縁のある[[有栖川宮|有栖川宮家]]から[[有栖川宮幸仁親王|幸仁親王]]を将軍に迎えようとしたが<ref group="注釈">有栖川宮の祖である[[高松宮好仁親王|好仁親王]]が徳川家康の曾孫にあたる[[亀姫 (松平忠直の娘)|寧子]]([[越前松平家]]出身)を妃としていたからとされる。ただし、好仁親王・寧子と幸仁親王には直接の血縁関係はない。</ref>、正俊の反対にあって実現しなかったとする[[宮将軍]]擁立説があるが、近年では酒井忠清が宮将軍擁立に動いたことを否定する説もある<ref>[[福田千鶴]]『酒井忠清』(吉川弘文館、2000年)</ref>。
 
== 方広寺大仏(京の大仏)建て替えへの関与 ==
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|240px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。[[寛文]]年間([[万治]]年間とする史料もある)に方広寺大仏は損壊したため、[[江戸幕府]]の主導で建て替えられることになった。]]