「ライマン・フランク・ボーム」の版間の差分

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ボームが舞台から離れていることに耐え切れたのは、そう長い期間ではなかった。彼は再び役者の仕事に戻り、ルイス・F・ボーム(Louis F. Baum)やジョージ・ブルックス(George Brooks)の芸名で活動した。
 
1880年、父が彼のためにリッチバーグ([[:en:Richburg, New York|Richburg]])に劇場を建ててくれた。ボームは脚本家の地位に就き、役者をやってくれる仲間を集めた。ウィリアム・ブラックの小説"A Princess of Thule"(テューレの王女)をベースにした歌付きの[[メロドラマ]]、"[[:en:The Maid of Arran|The Maid of Arran]]"(アランの乙女)はある程度の成功を見た。ボームは脚本を書くだけではなく、劇のための作曲を行ない(彼の劇は物語に歌が付属した、[[ミュージカル]]の走りというべき物であった)、さらには舞台で主役を演じた。おばのキャサリン・グレイ(Katharine Gray)がボームの役のおばの役を演じることもあった。彼女はシラキュース雄弁術学校の創立者であり、ボームはおばの学校に対して演劇、脚本、演出、翻訳(フランス語、ドイツ語、イタリア語)、校閲、[[オペレッタ]]の技術を無償で提供した。1882年11月9日、ボームは婦人参政権論者として著名な[[マティルダ・ジョスリン・ゲジ]]([[:en:Matilda Joslyn Gage|Matilda Joslyn Gage]])の娘モード・ゲジ(Maud Gage)と結婚した。ボームが「アランの乙女」の巡業で留守にしている間、別の劇をやっていたリッチバーグの劇場が火事になり、建物のみならずボームの脚本の多くも焼失した。
 
== サウスダコタ時代 ==
1888年、ボームと妻は[[ダコタ準州]]の(現[[サウスダコタ州]]の)[[アバディーン (サウスダコタ州)|アバーディーン]]に移った。そこで彼は「ボームの雑貨屋」("Baum's Bazaar")という店を開いた。品物を安易にツケで手放してしまう彼の悪癖により、店は結果的に破産に追い込まれた<ref>Rogers, pp. 23-5.</ref>。そのためボームは地方の新聞"The Aberdeen Saturday Pioneer"(アバディーン・サタデイ・パイオニア)の編集に転じ、同誌には"Our Landlady"(我らの女地主)というコラムも寄稿した<ref>Rogers, pp. 25-7 and ff.</ref>。『オズの魔法使い』における[[カンザス州]]の描写は、乾燥し切ったサウスダコタでの経験に基づいている。この時期、義母のマティルダ・ジョスリン・ゲジがボームの家に同居していた。サウスダコタ時代、ボームはあるカルテットに所属して歌をやっていたが、その仲間のうち一人に後年アメリカ[[ポピュリスト]]党の初代議員となるジェイムズ・コイル(James Kyle)がいた。
 
== 作家になる ==