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== 概要 ==
前身は、[[1865年]]に[[プロイセン]]で建造された商船「'''ブランデンブルク'''」である。全長52.2m・幅9.9m・[[排水量]]800トンで、3本のマストを備えた三檣[[バーク|バーク型]]の木造帆船だった。同年8月頃([[慶応]]元年6月)に[[長崎港]]へ来航中のところを、幕府が代金35,000ドル{{Refnest|group=注釈|1865年当時の貨幣価値は不明<ref>[httphttps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000030573 レファレンス事例詳細(Detail of reference example)] - レファレンス協同データベース</ref>。6年後の[[1871年]]に[[新貨条例]]が出されて[[日本の金貨|1円金貨]]の[[金]]の含有量は1.5グラムとなり1ドルと等価。2017年9月時点で金1グラムの小売価格は約5千円なので<ref>[http://www.tokuriki-kanda.co.jp/goldEtc/market/past.php#past_g 過去の相場推移] - 徳力本店</ref>、1871年当時の1円は現在の貨幣価値で約7,500円([[物価]]を考慮せずに金の価値だけで算出)。7,500×35,000=262,500,000(2億6,250万円)。}}で購入した。
 
「美賀保丸」と改名した本船は、[[幕府海軍]]の[[輸送艦|運送船]]として運用された。[[戊辰戦争]]に際しては、[[榎本武揚]]率いる旧幕府脱走艦隊の1隻として、[[1868年]]10月5日(慶応4年8月20日)に[[品川湊|品川沖]]を出港。この際には[[遊撃隊 (幕府軍)|遊撃隊]]などの将兵614人と多量の軍需物資を搭載していた。旗艦「[[開陽丸]]」の曳航を受けて[[蝦夷地]]([[北海道]])を目指したが、直後の10月6日(旧暦8月21日)に暴風雨に巻きこまれて曳航索を切断。マスト2本も折れて航行不能状態となり、10月11日(旧暦8月26日)に[[銚子市|銚子]]の[[犬吠埼]]近く黒生(くろはえ{{Refnest|group=注釈|近くにある[[銚子電鉄]][[笠上黒生駅]]は(かさがみくろはええき)と読む。}})海岸へと漂着した。[[座礁]]の末に沈没、周辺漁民の救助を受けたものの乗船者13人が水死した。生存者のうち250人ほどは[[利根川]]を遡航して[[土浦市|土浦]]方面へ、約150人は[[上総国]]の山間部を経由して[[江戸]]へ向かったが、新政府方の[[高崎藩]]兵などの追撃を受けて大部分は投降し、その一部が処刑された。遊撃隊の[[伊庭八郎]]ら一部は逃走に成功し、榎本艦隊への再合流を果たしている。