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Kekoyana (会話 | 投稿記録)
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==概要==
[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航後、[[蘭学]]にとどまらない[[洋学]]研究の必要を痛感した[[江戸幕府]]は、従来の[[天文方|天文台]][[蛮書和解御用|蛮書和解御用掛]]を拡充し、[[1855年]]([[安政]]2年)、「'''洋学所'''」を開設した。3月6日(1月18日)、小田又蔵・勝安芳・箕作阮甫らを異国応接掛手付蘭書翻訳御用に任じ、洋学所準備を始め、旧暦8月30日古賀謹一郎が洋学所頭取となる。しかしこれが開設直後の[[安政の大地震]]で全壊焼失したため、[[1856年]][[3月17日]](安政3年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]])、洋学所を「'''蕃書調所'''」と改称し、[[古賀謹一郎]]を頭取、[[箕作阮甫]]と[[杉田成卿]]を教授、[[川本幸民]]、[[高畠五郎]]、[[寺島宗則|松木弘安]]、[[手塚蔵]]、[[東条英庵]]、[[原田敬策]]、[[田島順輔]]、[[大村益次郎|村田蔵六]]、[[木村軍太郎]]、[[市川斎宮]]、[[西周 (啓蒙家)]]、[[津田真道]]、[[杉田玄端]]、[[村上英俊]]、[[小野寺丹元]]を教授手伝として同年末(安政4年1月)に開講した。(教授手伝にはこの後[[坪井信良]](安政4年)、[[赤沢寛堂]](安政5年)、[[箕作秋坪]](安政6年)、も加わる。)
 
幕臣の子弟を対象に(1857年2月12日安政4年1月18日、幕臣の子弟のみに入学を許可。[[1858年]]7月3日(安政5年5月23日)初めて陪臣の入学を許す、ただし一定の学力制限を設けた。文久2年6月7日制限を撤廃。)、蘭学を中心に[[英学]]を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当した。語学教育は隆盛、書籍は次第に充実し、自然科学部門も置かれた。1860年9月23日(8月9日)、幕府は、幕臣子弟の西洋語学習得を奨励し、志望者は蕃書調所へ入学すべきことを布達し、文久1年12月9日に陪臣にも同様の布達をした<ref>日本教育史資料7 蕃書調所起源考略 文部省編</ref>。[[1862年]]([[文久]]2年)には[[学問所奉行]]および林大学頭の管轄下に入り[[昌平坂学問所|昌平黌]]と同格の幕府官立学校となった。1862年3月11日(2月11日)、数学科を設置し、神田孝平を教授として出役。