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| image =[[File:King of Na gold seal.jpg|260px]]
| image_caption =漢委奴国王印
| material = 金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他(1989年蛍光X線照射による分析)
| size = 一辺の平均2.347cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625cm³
| writing = 漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)
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=== 発見の状態について ===
江戸時代天明年間([[天明]]4年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[1784年]][[4月12日]])とする説がある)、[[田|水田]]の耕作中に甚兵衛という地元の[[百姓]]が偶然発見したとされる。発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを[[那珂郡 (福岡県)|那珂]][[郡代#諸藩の郡奉行|郡奉行]]に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。発見された金印は、郡奉行を介して[[福岡藩]]へと渡り、[[儒学者]][[亀井南冥]]は『[[後漢書]]』に記述のある金印とはこれのことであると同定し『金印弁』という鑑定書を著している。
 
発見の経緯を記した「百姓甚兵衛口上書」は複製しかなく、本物は行方不明であり、所蔵する福岡市博物館によれば、いつなくなったのかも不明であるという。
 
== 外形 ==
 
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[[1953年]](昭和28年)[[5月20日]]、戦後初めて金印の測定が岡部長章(最後の岸和田藩主[[岡部長職]]の八男)によって試みられた。「質量108.7[[グラム]]、体積6[[立方センチメートル|cc]]{{efn|200ccメートルグラスに金印を入れ、増水量を三度測った平均値。}}、[[比重]]約18.1」、[[貴金属]][[合金]]の割合を[[銀]]三分、[[銅]]七分を常とする伝統的事実からして22.4K{{efn|金と銀だけなら22.5K。}}と算定した<ref>岡部長章「奴国王金印問題評論」『鈴木俊教授還暦記念東洋史論叢』、1964年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収</ref>。
 
[[1966年]](昭和41年)に[[経済産業省|通商産業省]]工業技術院計量研究所(現[[独立行政法人]][[産業技術総合研究所]])で精密測定された。印面一辺の平均2.347[[センチメートル|cm]]、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625cm³。鈕は身体を捩りながら前進する[[ヘビ|蛇]]が頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇鈕である。蛇の身は、蛇特有の鱗ではなく、円筒状の工具を捺して刻んだ魚子(ななこ)文で飾られている。蛇鈕は漢の印制とは合致しないが、現在確認されている印を眺めると、[[前漢]]初めから[[晋 (王朝)|晋]]代までで26例知られ、前漢初期に集中しているものの、後漢以後でも13例知られている。駱駝鈕が、北方諸民族に与えられるのに対し、蛇鈕は南方諸民族に与えられた可能性が高い。日本は中国の東に位置し矛盾するように見えるが、この頃の中国は倭を南方の民族と誤解していたためだと考えられる<ref name=takakura>[[#高倉|高倉 (2007)]]。</ref>。辺の長さは[[後漢]]代の1[[寸]](約2.304cm)に相当する。[[1994年]]([[平成]]6年)の[[蛍光X線]]分析によると、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として[[水銀]]などが含まれ、出土している[[後漢]]代の他の金製品とも概ね一致している。
 
現在使用されている[[印鑑]]とは違って中央が少し窪んだ形状になっており、これは[[封泥]]用の印であると考えられる。後漢との正式な文書外交の展開で、恒常的に外交交渉を円滑に行うため、外臣と言えども漢の役人として印の使用を求められた可能性がある<ref name=takakura/>。1世紀の倭国内に木簡にしろ書簡にしろ封泥で閉じて通信する為の権力指令伝達機構や封をして読まれることをさけなければならないほどの識字率と広範な文字文化が既にあったと唱える研究者はおらず、今のところ国内での使用は考えられない。金印と同時代に中国から下賜されたとされる[[鏡]]やのちの律令国家で正当な権力であることを保証し見せる[[駅鈴]]のように、「これを持っていること(見せること)がすなわち権力の正当性の証」であった可能性もある。
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== 発音 ==
 
倭と奴の発音は、[[藤堂明保]]編『学研漢和大字典』([[学研ホールディングス|学習研究社]])によると
* 倭 - [[上古音]] uar [[中古音]] ua [[近古音]] uo [[普通話|現代音]] uə
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ただしこれは、現代の[[中国語]]の[[方言]]と同様、中国の国土全体が古来単一音であったということを意味しない<ref>[[王育徳]]「中国の方言」方言史『中国文化叢書1 言語』 [[大修館書店]]、1967年</ref><ref>坂井健一『魏晋南北朝字音研究―経典釈文所引音義攷』 [[汲古書院]]、1975年</ref>ので、金印の印文の読音についても「漢語の方言論」の視点から再考すべきことが提唱されている。三宅の当時「ノ音はあってもド音はなかった」とする漢語単一論に対し、漢語方言論に基づく、地域を違えてのド音とノ音(ナ音)の同時並存説がある。久米雅雄は前漢の[[揚雄]]が著した『[[方言 (辞典)|方言]]』や『[[漢書]]』西域伝に登場する「難兜国」へ頒給された印章「新難兜騎君」印に注目し、漢代には上古北方[[漢音]]系の「ど」と上古南方[[呉音]]系の「な」「の」が並存したとする説を提唱している<ref>久米雅雄『日本印章史の研究』 [[雄山閣]]、2004年</ref><ref>久米雅雄「国宝金印『漢委奴国王』の読み方と志賀島発見の謎」『立命館大学考古学論集 IV』 [[立命館大学]]、2005年、55-68頁</ref><ref>久米雅雄「国宝金印の読み方」『月刊書道界』2009年8月号、藤樹社</ref>。
 
<br />
 
== 中国史との比定 ==
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[[中国]]漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者(外臣)に対しては、内臣である[[諸侯王]]が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは[[印綬]]の項を参照)。
 
 
=== {{仮リンク|滇王之印|zh|滇王之印}}との対応 ===
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== 偽造説 ==
形式・発見の経緯に不自然な点があるとして、[[中世]]・[[近世]]に偽造された[[贋作]]であるとの説が、これまで幾度も唱えられてきた。1836年に、国学者の松浦道輔(1801年-1866年)が偽造説を唱えたのが初めといわれる。

考古学的にいえば、出土がこれほどまでに不明確なものは本来ならば史料として扱うのは困難である。それが、史料として扱われてきたのは、ひとえに『後漢書』の「印綬」がこれであるという認識のみからに他ならない。
 
また、印綬の形式が漢の礼制に合わないという意見もあった。これに対しては、漢代といっても時代が異なるが、蛇鈕を持つ滇王之印の発見をもって漢の礼制に合うとする意見もある。
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* 江戸時代の技術なら十分贋作が作れること
* {{lang|zh|滇}}王之印に比べると稚拙
などの点を根拠に亀井南冥らによる偽造説を唱えた<ref>三浦佑之『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』 [[幻冬舎新書]]、2006年 ISBN 4-344-98014-X</ref>。なお、三浦は、南冥は才能ある学者であるが、策士で野心家でもあった。金印の発見は南冥が福岡藩に2つある藩校の1つの館主に就いた直後であった。南冥は競争相手の藩校を出し抜くために役人、商人と結託して金印を偽造したのではないかという
 
それに対し、[[高倉洋彰]]は
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* 魚々子文様の各部寸法の測定結果では外形が異なることから、両印の魚々子文様に同じたがねは使用されていない。
ことを指摘し、同一時期の同一工房ではないとした。これにより「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」は兄弟印ではないとし、光武帝下賜説の論拠が失われたとしている<ref>鈴木勉『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』 [[雄山閣]]、2010年、ISBN 978-4-639-02117-9</ref>。
 
2005年、廣陵王璽の蛍光X線分析がおこなわれたが、南京博物館が拒否しているという理由で分析結果は公表されていない。
 
== 漢委奴国王印をモチーフにした作品 ==