「クウェート侵攻」の版間の差分

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| casualties2 = 420人戦死<br/>12,000人[[捕虜]]になる
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戦車約250両破壊又は[[鹵獲]]<br/>装甲車850両以上破壊又は鹵獲<ref>{{Cite web|url=https://www.globalsecurity.org/military/world/iraq/ground-equipment-intro.htm|title=Baath Ground Forces Equipment|accessdate=2022年9月3日|website=[[:en:GlobalSecurity.org|GlobalSecurity.org]]}}</ref><br/>軍用機57機破壊<ref name=parliament>{{Cite web|url=https://publications.parliament.uk/pa/ld200102/ldjudgmt/jd020516/kuwait-1.htm|title=Judgments - Kuwait Airways Corporation v Iraqi Airways Company and Others|accessdate=2022年9月3日|publisher=[[貴族院 (イギリス)|House of Lords]]}}</ref>、8機鹵獲<br/>軍艦17隻撃沈、6隻鹵獲
}}
'''クウェート侵攻'''(クウェートしんこう、{{Lang-en|Invasion of Kuwait}})は、[[1990年]]に発生した、[[イラク]]が[[クウェート]]に[[侵攻]]した[[事件]]である。この侵攻は後に'''[[湾岸戦争]]'''に発展した。'''イラク・クウェート戦争'''(イラク・クウェートせんそう、{{Lang-en|Iraq-Kuwait War}})とも言われる。
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特に1990年7月に入ると、原油価格は従来の1バレル当たり18ドル程度から12ドル程度にまで下落したが、イラクは、この価格下落はクウェート及び[[アラブ首長国連邦]]が[[石油輸出国機構]](OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、両国を非難した{{Sfn|外務省|1991}}。また、このような経済的苦境下でクウェートが借款の返済を要請してきたことについて、フセイン大統領は[[アメリカ合衆国]]や[[イスラエル]]の陰謀が背景にあると考えるようになっており、この[[陰謀論]]は、イラク指導部の間で広く共有されていった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。
 
[[7月17日]]は[[7月17日革命|1968年のクーデター]]で[[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]]が成立した記念日であったが、この日の演説で、フセイン大統領は「クウェート等が石油の過剰生産をやめなければ武力を行使する」と述べた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。[[7月20日]]中旬頃からは、クウェートとの国境地帯において軍部隊の集結が開始された{{Sfn|外務省山崎|19912010}}。これに対して[[エジプト]]とサウジアラビアが両国間の仲介を試み、[[7月31日]]にはサウジアラビアの[[ジッダ]]で両国間の会談が実現した{{Sfn|外務省|1991}}。このジッダでの会談は、クウェートとしては今後長期にわたる交渉を実現する上での第一段階として位置づけていたのに対し、フセイン大統領には、そのように悠長に構えるつもりは全くなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。この会談で、イラクはクウェートに対して負債の帳消しとともに[[ブビヤン島]]などの割譲を要求したが、クウェートはこれらの要求を拒絶した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。この時、イラクは開戦を決意したとされる{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。
 
== 侵攻の経過 ==
=== 侵攻の準備 ===
侵攻の主力となる[[共和国防衛隊]](RG)に対しては、7月12日より順次に侵攻に備えた情報資料が配布され、7月31日にはクウェート政府高官のリストも配布された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。一方、正規の軍組織は等閑に付されており、国防大臣も参謀総長も何も知らされず、ニザル・ハズラジ陸軍参謀総長は、後日、クウェート攻撃をラジオのニュースで初めて知るような状況だった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=16-22}}。また、当初の計画ではクウェート領土の一部を対象とした限定的な攻撃とされていたが、フセイン大統領の指示により、最終段階でクウェートの全面占領作戦へと変更された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}{{Efn2|クウェート全土の占領へと作戦計画を変更させたのは、7月31日の夜だったとされている{{Sfn|山崎|2010}}。}}。
 
一方のクウェート軍は、7月17日のフセイン大統領の演説を受けて警戒態勢を取ったものの、これはほぼジェスチャーに近いものであり、また週末にはその警戒態勢でさえ25%に減じている状況だった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。またイラク側は、侵攻前からクウェート市内部に多くの工作員を潜入させ、重要な施設を監視していたが、クウェート当局はこれに対しても特段の対策を講じなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。
 
[[アメリカ国防情報局]](DIA)は、[[偵察衛星]]からの画像によって早くからイラクの侵攻準備体制を把握していたが、上記のようにイラク側も当初は限定攻撃のみを企図していたこともあって、部隊間の無線交信量の増大や重砲兵部隊の存在、弾薬の事前集積や[[後方支援]]部隊などが欠けていたことから、7月下旬においても、[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部(JCS)]]および[[アメリカ中央軍|中央軍(CENTCOM)]]ともに「クウェートとの交渉を有利に進めようとする恫喝の可能性が高い」と評価していた{{Sfn|山崎|2010}}。
 
=== 戦闘の展開 ===
1990年8月12日午前1時(現地時間)、イラク軍はクウェート国境を越えて侵攻を開始した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。侵攻の先鋒は、共和国防衛隊の{{仮リンク|ハンムラビ師団|en|1st Hammurabi Armoured Division|label=第1「ハンムラビ」機甲師団}}、{{仮リンク|アル=マディーナ師団|en|2nd Al Medina Armored Division|label=第2「アル=マディーナ」機甲師団}}、[[タワカルナ師団|第3「タワカルナ」機械化歩兵師団]]の3個の精鋭師団が担い、またその後方には、やはり共和国防衛隊に所属する4個歩兵師団が続くことになっていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。ただしこれらの侵攻部隊のうち、完全定数の弾薬・燃料を携行していたのは、侵攻部隊を先導する2個中隊の[[T-72]]戦車、計24両のみだったとされる{{Sfn|山崎|2010}}。
 
侵攻開始30分後には、特殊部隊がクウェート市に対して[[ヘリボーン]]強襲を実施、また海からも[[コマンド部隊]]が王族を捕らえるための上陸作戦を行っていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。しかしクウェート首長一族のほとんどは逃亡に成功し、首長の弟である[[シェイク・ファハド・アル=サバーハ]]のみが宮殿に残っていたために殺害された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。イラク侵攻部隊はほとんど抵抗を受けずに前進し、早くも5時30分にはクウェート市へ突入し、市内にいたコマンド部隊と合流した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。
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主要なクウェート政府施設は5時間以内にイラク軍に確保され、翌朝までに全土の戦略拠点が占領された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。クウェート軍第35機甲旅団の戦車が、絶望的に劣勢な中で短時間の防御戦闘を実施したが、多くのクウェート陸軍部隊は降伏あるいはサウジアラビア方面へ退却し、高級指揮官の多くは軍を督戦するかわりに南へ逃亡してしまった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。また空軍も、多くのイラク軍ヘリコプターや装甲車両を仕留めたと主張されてはいるものの、主要な飛行場は正午までに占領され、[[ミラージュF1 (戦闘機)|ミラージュF1戦闘機]]15機を擁していた[[アリー・サーリム空軍基地]]もその日のうちに、また[[A-4 (航空機)|A-4攻撃機]]19機を擁していた[[アフマド・アル=ジャービル空軍基地]]も翌日には放棄された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。残存クウェート空軍機はサウジアラビアやバーレーンへ退却した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。
 
なお、占領された[[クウェート国際空港]]に着陸した[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]149便の乗員乗客がイラクの首都[[バグダード]]に連行される事件も発生した([[ブリティッシュエアウェイズ149便乗員拉致事件]])<ref name=parliament/>
 
== 侵攻後 ==
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=== 占領下のクウェート ===
[[ファイル:Kuwaiti Prime Minister Alaa Hussein Ali 1990 with Iraqi President Saddam Hussein.jpg|300px|thumb|バグダッドで会談するサダム・フセインとアラー・フセイン・アリー「クウェート共和国」首相]]
当初、フセイン政権大統領クウェート王族を確保してイラク領土編入では無く、同国属国化併合狙っ承諾させることを企図しいたとされるが{{Sfn|山崎|2010}}、上記の通りこれが果たせなかったことから、クウェート国内の対イラク協力者の二重国籍を持ち、バース党員であるとともにクウェート陸軍の初級幹部でもあった[[アラー・フセイン・アリー]][[陸軍大佐]]に昇進させるとともに、彼を首相とする「クウェート暫定革命政府」を成立させた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}{{Sfn|山崎|2010}}。しかし、閣僚の大半がイラ臨時政府へ加わる有力なウェートであはいなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。1990年8月4日、同政府は「'''[[クウェート共和国]]'''」の樹立を宣言した。しかし、国際社会がこれを承認しないことが分かるや、8月8日、イラク[[革命指導評議会]]は、クウェートの併合を決定。クウェートを[[バスラ県]]の一部と、新たに設置したイラク19番目の県「{{仮リンク|クウェート県 (イラク)|en|Kuwait Governorate|label=クウェート県}}」とした<ref name=mainichi0829c07>クウェートを19番目の州に イラクが布告『毎日新聞』1990年8月29日夕刊、7面</ref><ref name=asahi0829c07>クウェートを自国州に イラク既成事実化狙う『朝日新聞』1990年8月29日朝刊、7面</ref>。
 
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*** [[国際連合]]は緊急[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]を招集して、イラク軍の即時無条件撤退を要求する[[国際連合安全保障理事会決議660|共同決議案660]]を全会一致で採択する。
 
== 出典脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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