削除された内容 追加された内容
31行目:
大仏造営中の天平21年([[749年]])、[[喜光寺]](菅原寺)で81歳で入滅。現在の[[奈良県]][[生駒市]]にある往生院で[[火葬]]後、[[竹林寺 (生駒市)|竹林寺]]に遺骨が納められ、[[多宝塔]]を建て墓所とした<ref name="瓶記" />。また、喜光寺から往生院までの道則を行基の弟子が彼の[[輿]]をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓地地帯は別名「輿山」とも呼ばれている。また、朝廷より[[菩薩]]の諡号を授けられ、「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「[[文殊菩薩]]の化身」とも言われている。
 
行基が近畿地方に建立した寺(四十九院)の一つ、長岡院の候補とされる菅原遺跡(奈良市)では円形の建物跡が発掘されており、[[元興寺文化財研究所]]が行基を供養した建物跡の可能性があるとしている<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14911270.html{{Cite news|author=|date=2021-05-21|title=行基供養か 円形建物跡/奈良・菅原遺跡 奈良時代では初」]『 奈良・菅原遺跡|publisher=|newspaper=[[朝日新聞]]』朝刊|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14911270.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210521045304/https://www.asahi.com/articles/DA3S14911270.html|archivedate=2021年5月-05-21日(社会面)2021年5月23日閲覧}}</ref>。
 
行基が迎えた菩提僊那は後の[[天平勝宝]]4年([[752年]])、聖武上皇の命により、東大寺大仏[[開眼供養]]の導師を勤めた。