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「'''[[奥州]]'''」ともといわれた。
 
「'''東北'''」と称する文献例は、主に江戸時代・[[天保]]期以降の[[幕末]]になってから散見されるようになり、この場合、「東北国」と称する例もある。地方名としての「東北」の称が公的な史料で初見されるのは、[[慶応4年]]([[1868年]]<!-- 正月 --><!-- 慶応3年? -->)に[[佐竹義堯]]([[秋田藩]]主)に下賜された[[内勅]]とされる。ただし、この場合の「東北」は[[五畿七道]]の内の「東北3[[道 (行政区画)|道]]」(東海道・東山道・[[北陸道]])、すなわち、[[天皇]]の在所である[[畿内]]からみて東あるいは[[北東]]側にある全ての地域を指しており、西南4道([[山陰道]]・[[山陽道]]・[[南海道]]・[[西海道]])と対比される<ref name=naming>米地文夫, 今泉芳邦, 藤原隆男、「[http://id.nii.ac.jp/1399/00011519/ 新聞・雑誌名「東北」にみる明治期の東北地域観]」『岩手大学教育学部研究年報』 1998年2月 第57巻 第2号 p.55-72, 岩手大学教育学部</ref>。または、[[東国]]と[[北陸地方|北陸]]の合成語とも考えられる。なお、奥羽および現在の東北地方は「'''東'''山道の'''北'''部」に位置している。
 
[[明治元年]][[12月7日 (旧暦)|12月7日]](西暦[[1869年]][[1月19日]])、[[奥羽越列藩同盟]]諸藩に対する[[戊辰戦争#戦後処理|戊辰戦争の戦後処理]]の一環として、陸奥国が5分割([[磐城国|磐城]]・[[岩代国|岩代]]・[[陸前国|'''陸'''前]]・[[陸中国|'''陸'''中]]・[[陸奥国 (1869-)|'''陸'''奥]])、出羽国が2分割([[羽前国|'''羽'''前]]・[[羽後国|'''羽'''後]])されると、「'''[[陸羽 (曖昧さ回避)|陸羽]]'''」または「[[三陸両羽]]」との呼称が生まれた。この場合、現在の福島県全域と宮城県南端に相当する磐城・岩代の2国を除いた、残りの「陸」と「羽」が付く5国の地域を指し、「奥羽」とは指し示す領域が異なっているが、分割前の「'''陸'''奥国」と「出'''羽'''国」と見ることもできるため、混同されて使用される例も見られる。明治前半に奥羽両国は、明治元年成立の旧国の数から「奥羽7州」「東北7州」、あるいは、新設の[[都道府県|県]]の数から「'''東北6県'''」とも言われるようになる。