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== 概要==
1927年の朝鮮半島(現:大韓民国[[全羅南道]]和順郡)に生誕し、戦後は[[南朝鮮労働党]](後に北朝鮮・[[朝鮮労働党]]に統合)の活動家となった<ref name=":1">{{Cite web |title=【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(38)主体思想研究の第一人者 朝鮮大学校元副学長の慟哭(1/4ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20180929-WK5WD5KX6FI3FEQJDNEEGEK57U/ |website=産経ニュース |date=2018-09-29 |access-date=2022-10-18 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。ソ連のモスクワ留学も決まっていたが大韓民国からスパイ疑惑が出ていたため、1948年6月18日に大韓民国からの亡命目的で[[済州島]]を中継に、日本列島である瀬戸内海の広島県の[[尾道]]から密入国した。朴は警戒が緩く、尾道で一切怪しまれなかっと明かしている<ref name=":1" />。朴は、戦争終結時点で日本列島に住んでいた朝鮮人のうち、約200万人中約140万人が朝鮮半島に戻って行ったものの、朝鮮半島の貧困体験後に日本へ帰ろうと密入国したり、朴のような戦後に初めて日本列島を目指したりした朝鮮人らがない交ぜになって形成されたのが後の「在日朝鮮・韓国人」という存在と解説している<ref name=":1" />。日本の行政機関も戦後の混乱で、戦後に初めて日本列島に来た朴が[[外国人登録制度|外国人登録]]を行ったとき、「戦前から親類方に住んでいた」と虚偽申告しても、役所側は調査もしなかったのか容易に受理されたと明かしている<ref name=":1" />。密入国後は親類の家に住み、1945年10月に結成されていた在日朝鮮人団体「[[在日本朝鮮人連盟]](朝連)」愛知県本部や民族学校の仕事で稼ぎを得ていた<ref name=":1" />。上海にあった[[東亜同文書院大学 (旧制)|東亜同文書院]]の系譜を引き、戦後に外地からの引き揚げ教員・学生の受け皿として創設された[[愛知大学]]で入学した。朴はマルクス経済学者、[[林要]]らに師事し、1955年愛知大学修士課程を修了した。その後、大学院研究科でマルクス経済学を修めた朴は愛知大に累計11年間在籍し、助手となり、愛知大学法経学部国際問題研究所専任研究員まで登りつめた<ref name=":1" /><ref name=":2">{{Cite web |title=朴庸坤|プロフィール|HMV&BOOKS online |url=https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%9C%B4%E5%BA%B8%E5%9D%A4_000000000703603/biography/ |website=HMV&BOOKS online |access-date=2022-10-18 |language=ja |last=株式会社ローソンエンタテインメント}}</ref><ref name=":5">{{Cite web |title=【書評】老学者の一徹、渾身の一撃 『ある在日朝鮮社会科学者の散策』朴庸坤著(1/2ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20170312-PQJ7SFSQLJM6PD5K6C5ET3UUPE/ |website=産経ニュース |date=2017-03-12 |access-date=2022-10-18 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref><ref name=":3">{{Cite web |title=ある在日朝鮮社会科学者の散策―「博愛の世界観」を求めて |url=https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784773817027 |website=紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア |access-date=2022-10-18 |language=ja}}</ref>。1960年から朝鮮大学校教員として在日朝鮮人への民族教育に携わりだした<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />。1964年には朝鮮大学校政経学部長となり、1970年代から[[主体思想]]研究を開始し、「主体思想叢書」の編集・出版をしたことで主体思想の国際的普及活動をしたと評価された<ref name=":2" /><ref name=":3" />。
 
1972年に[[金日成]]の[[還暦]]祝いのための在日朝鮮人帰国事業にて、[[朝大生]]を北朝鮮に行くように説得する役割を担った。そのことに対して、後に「悔やみきれない過ちを犯した」と反省している<ref name=":5" />。
 
その後、1981年には朝鮮大学校副学長まで登りつめ、朝鮮大学校内に「社会科学研究所」を創設し、所長に就任した。1985~1995年まで[[在日本朝鮮社会科学者協会]]会長、2005年まで[[主体思想国際研究所]]理事1998年から2004年まで[[総合研究開発機構]]招聘客員研究員を務め<ref name=":2" />、1981年から在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)中央委員も歴任した<ref name=":3" /><ref name=":4" />。
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しかし、1995年の初訪北での北朝鮮の有様から、自身の考えていた社会主義は北朝鮮には無いと完全に目を覚ました<ref name=":0" />。2000年に大韓民国において、日本国における「朝鮮籍」者の訪韓要件が緩和されたことで密入国以来の初訪韓し、2005年に再訪韓したときに1997年に北朝鮮から韓国へ亡命した[[黄長燁]]と再会をしている<ref name=":4" />。2001年に総連を通じて北朝鮮から朴へ訪朝の招請状が来た際には、殺害されて二度と日本に帰れない危険性とから妻が猛反対した。しかし、朴は片道切符であると理解し、6年ぶりの訪朝をした。残るように言われたが、日本国内で書きかけの論文があることを理由に帰国に成功している<ref name=":4" />。2004年に金正日政権の非難する反北朝鮮文書の意図的流布を理由に、朝鮮学校副学長と朝鮮総連中央委員会から解任された<ref name=":4" />。
 
後に、[[2007年]]にテレビ番組に出演して極秘だった「([[1972年]])[[朝大生]]200人の帰国」という、北朝鮮当局からの金日成の[[還暦]]祝いとの命令で「[[在日本朝鮮青年同盟]]60名の自動二輪[[オートバイ]]隊、200名の男女大学生を北朝鮮に送れ」との指示がなされて、朝鮮学校の学生約260人を北朝鮮に送った事実を公表したことにより<ref name=":0" /><ref name=":4">{{Cite web |title=【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(41)「独裁の道具」にはさせない 死をも覚悟した訪朝(1/3ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20181020-XX7JR5W4YNJY7KZGI7D3LAAGLY/ |website=産経ニュース |date=2018-10-20 |access-date=2022-10-18 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>、2010年までに北朝鮮関連組織から授与された勲章や称号を剥奪され、朝鮮大学校および朝鮮総連の関わる職を解任されている。具体的には[[朝鮮科学院]]の院士・博士・教授の学位と[[金日成勲章]]を剥奪された<ref name=":2" /><ref name=":3" />。