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[[天平]]21年([[749年]])に行基の弟子・真成が、行基の骨をおさめた銅製骨臓器瓶に師の伝記を刻んだ『[[大僧上舎利瓶記]]』に、「俗性は高志氏にして、その考(ちち)の[[諱]]は[[高志才智|才智]]、字は知法君の長子なり。もと[[百済|百済国]]の王子・[[王仁|王爾]]のすえなり。その妣(はは)は、[[蜂田古爾比売|蜂田氏]]にして、諱は古爾比売、河内国大鳥郡の蜂田首虎身の長女なり」とあり、父母の出自、名前が記されており{{Sfn|奈良県|2016|p=8}}、[[中国|中国系]][[帰化人]](百済に帰化していた[[中国人]])の氏族である<ref>{{Kotobank|行基|[[朝日日本歴史人物事典]]}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=[[丸山雍成]]・[[小風秀雅]]・[[中村尚史 (歴史学者)|中村尚史]]|title=日本交通史辞典|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|date=2003-08-01|ISBN=4642013393|page=267}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[陳水逢]]|date=1993|title=日本文明開化史略|ISBN=9570507101|series=|publisher={{仮リンク|台湾商務印書館|zh|臺灣商務印書館}}|url=https://www.google.co.jp/books/edition/日本文明開化史略/XkEV63ouB4gC?hl=ja&gbpv=1&pg=PA69&printsec=frontcover|page=69}}</ref>。一方、百済後裔というのは、系譜を飾るための装飾であって、『[[日本国現報善悪霊異記|日本現報善悪霊異記]]』にあるように[[越後国]][[頸城郡]]出身とする意見もある<ref>{{Cite book|和書|author=[[太田亮]]|title=姓氏家系大辞典|series=第3巻|publisher=[[国民社]]|date=1942|page=2292}}</ref>。
 
[[天智天皇]]7年([[668年]])、[[河内国]][[大鳥郡]]([[天平宝字]]元年([[757年]])に[[和泉国]]へ分立、現在の[[大阪府]][[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]家原寺町)で父・[[高志才智]]、母・[[蜂田古爾比売]]の長子として生まれる<ref name="瓶記" />。『大僧正舎利瓶記』に「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」とあり{{Sfn|奈良県|2016|p=12}}、[[天武天皇]]11年([[682年]])に<ref name="瓶記" />15歳で大官大寺で<ref>吉田靖雄『行基と律令国家』([[吉川弘文館]]、1987年)での推定。</ref>、[[得度]]を受け[[出家]]し、法行と称した<ref name="堺市史7-1">『[[堺市史]]』第七巻[https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2714005100/2714005100100070/?hid=ht000040&word=%E5%A0%BA%E9%91%91 第一編 人物誌 第一章 黎明期]([[堺市立中央図書館]])2021年5月23日閲覧</ref>。[[持統天皇]]5年([[691年]])、24歳で戒師の高宮寺徳光[[禅師]]のもと[[受戒]]する。[[飛鳥寺]]、次に[[薬師寺]]で[[法相宗]]を主として教学を学び{{sfn |千田稔|1994| pp=50-71}}名を行基と改めた<ref name="堺市史7-1" />。教えを受けたとされる[[道昭]]は、入[[唐]]して[[玄奘]]の教えを受けたことで有名であり、それとともに[[井戸]]を掘り、[[渡し船|渡し]]や港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されている{{sfn |千田稔|1994| pp=71-75}}。ただし、行基が[[道昭]]に師事したという伝承もあるが、行基の[[骸骨|遺骨]]を納めた瓶『舎利瓶記』、『[[日本国現報善悪霊異記|日本現報善悪霊異記]]』には記されておらず、疑問視する意見もある<ref>{{Cite book|和書|author=[[大西龍峯]]|date=1987-03|title=元興寺智光の出自及び本質|series=駒澤大學佛教學部研究紀要 45|publisher=[[駒澤大学]]|page=303-304}}</ref>。[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])、生家を[[家原寺]]に改め、母と[[大和国]]の佐紀堂で暮らす<ref name="年譜">{{Cite book|和書|author=[[吉田靖雄]]|date=1987|title=行基と律令国家|page=83|publisher=[[吉川弘文館]]}}</ref>。40歳で[[生駒山]]の草野仙房に母親と移り修行する。43歳で母を亡くし3年間[[喪]]に服す。
 
知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して、[[近畿地方]]を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業に活動した{{sfn|根本誠二|2005|pp=22-26}}。行基が開基したとされる寺院は、『[[続日本紀]]』で40余処、興融寺の[[鎌倉時代]]中期の顕彰碑では49院といわれる多くが不明であり、小規模な修行と布教の為の拠点だったと見られる{{sfn |千田稔|1994| pp=99-173}}。だが、[[養老]]元年(717年)[[4月23日_(旧暦)|4月23日]]、[[詔]]をもって「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、これら新しいタイプの宗教集団を寺の外での活動を禁じた[[僧尼令]]に違反するとされ、糾弾されて弾圧を受けた{{sfn |千田稔|1994| pp=88-92}}{{sfn|根本誠二|2005||pp=22-26}}。行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみである。