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赴任一ヵ月後に、北越学館の発起人たちに「意見書」を提出した。その意見書の中で、外国人宣教師による教育が無給でなされていることを指摘し、これはアメリカン・ボードの援助を受けていることであり、これは、北越学館設立の独立の精神に反するとの見解を表明した。それに対して、宣教師たちは、内村教頭の元での勤務を拒否して、辞職を通告した。内村は愛国心と独立の精神を持っていたので、外国人宣教師や[[牧師]]の成瀬仁蔵と学校行政の問題をめぐって激しく対立した。内村は自らの信念に従って行動して、内村と宣教師たちの対立は学館紛争になり、激化した。
 
この紛争は生徒をも巻き込んだ。生徒は「北越学館の独立を計らんための結合」を誓う、内村支持の誓約書が作成され136人が署名した。学館の発起人たちは、これは内村による煽動であると見なした。[[阿部欽次郎]]、加藤勝弥、成瀬仁蔵ら発起人は、内村の「意見書」につき会合を開き協議をする。その結果、外国人宣教師の援助を打ち切る必要はないことを決定した。
 
この両者の紛争の調停を図るために、新島襄は[[横井時雄]]を新潟に派遣したが、効果はなかった。とりわけ、成瀬が激しく内村と対立して、自らも「意見書」をあらわし、内村の非を五項目にわたり列挙した。
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その後内村は、[[富士見町教会|一番町教会]]で[[説教]]したり、水産伝習所(現在の[[東京海洋大学]]の前身の一つ)・[[明治女学校]]・[[東京英和学校]]などで教鞭をとる。やがて[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]]の嘱託教員になり、有名な[[内村鑑三不敬事件|不敬事件]]を起こして、世間の話題を呼ぶことになる。
 
[[1891年]](明治24年)に発生した不敬事件の際には、雑誌『[[国会 (雑誌)|国会]]』が北越学館における内村の[[国粋主義]]的な行動を引用して、内村が勤皇心がある人物であるとの文章を掲載した。内村自身は事件から17年後の[[1905年]](明治38年)に新潟で行った講演で北越学館を去った日のことを回顧し、「12月18日霙乱るる寒風」に送られて東京へ逃げ帰ったと語っている。
 
== 参考文献 ==