削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
→‎文学と創作物表現: 一部内部リンク化
498行目:
[[村上春樹]]の『[[ねじまき鳥クロニクル]]』は、それまで三島由紀夫が自決しようとどうでもいいといった[[ポストモダン]]な小説を書いていた村上春樹が歴史や政治を扱う小説家になったと評されるきっかけとなった作品で、[[ノモンハン事件]]を扱っているのだが、同時に妹に対して近親相姦的欲望を抱く兄が登場する話でもある{{Sfn|樋口|2016|pp=265 - 267}}。村上春樹が『[[少年カフカ]]』で述べるところによれば、『[[海辺のカフカ]]』はオイディプス伝説を基にした部分があるとのことである{{Sfn|柴田|2009|p=258}}。ただし、村上春樹は『少年カフカ』で、母親的存在は実際には母親ではないので、交わったところで近親相姦にはならずあくまでメタフォリカルなものにとどまり不自然さはないと述べている{{Sfn|柴田|2009|p=291}}。[[清水良典]]は『海辺のカフカ』についての解説で、田村カフカが母親かもしれない佐伯とセックスするという表現は、小説内の現実として描かれているわけではなく、深層心理をメタファー化しているわけだと指摘した{{Sfn|清水|2015|p=75}}。清水良典は、父親が死ぬことで物語が動き出す『[[1Q84]]』も、潜在的には『海辺のカフカ』に描かれたエディプス的なモチーフを引き継いでいると論じた{{Sfn|清水|2015|p=253}}。[[東野圭吾]]の『[[秘密 (東野圭吾)|秘密]]』は、死んだ妻の魂が娘に宿るという設定なのだが、[[井上ひさし]]は設定自体は評価しつつも、内容が近親相姦的なため作者自身がきつい内容に耐え切れずについ常識的な作品に仕上げてしまったように見えると指摘した{{Sfn|川口|2017|p=456}}。[[皆川博子]]は、娘としての肉体を持つ妻と夫は性交渉できるのかという内容を、東野圭吾は誠実に冷静に描こうとするわけであるが、これは東野圭吾の作家としての理念に基づくものだと自分は考えていると『秘密』の文庫版解説で評している<ref>『秘密』(東野圭吾、文藝春秋、2001年、1998年単行本発行) 451頁(皆川博子による解説部分) ISBN 978-4-16-711006-2</ref>。[[川上弘美]]の『[[水声]]』は姉と弟の近親相姦を扱った作品なのだが、文庫版解説を執筆した[[江國香織]]は執筆の際に浮かんだ「一般的」という言葉について、そもそも「一般的」とはどういうことなのかと考え込んでしまったと述べている<ref>『水声』(川上弘美、文藝春秋、2017年、原書となる単行本は2014年発行) 249頁(江國香織による解説部分) ISBN 978-4-16-790881-2</ref>。[[村田沙耶香]]の『消滅世界』では夫婦が行う性行為が近親相姦として扱われるが、[[斎藤環]]は『消滅世界』のこのアイディアには自身が特別に感動したと語っている<ref>『消滅世界』(村田沙耶香、河出書房新社、2018年、2015年単行本発行) 281頁(斎藤環による解説部分) ISBN 978-4-309-41621-2</ref>。
 
[[永田守弘]]は、[[官能小説]]においては近親相姦などの男女関係の要素にフェティシズムなどを組み合わせることで多様なストーリー展開が生み出されていると指摘する{{Sfn|永田|2016|p=153}}。永田守弘は、[[藤堂慎太郎]]による著作『ママの美尻』で母親と息子の[[アナルセックス]]が扱われていることを例にとり、官能小説の世界では尻フェチが高じてアナルフェチに至る場合もあると論ずる{{Sfn|永田|2016|pp=133, 135 - 137}}。[[櫻木充]]の『僕と義母とランジェリー』では息子との性行為の際の[[潮吹き (女性器)|潮吹き]]や[[陰核]]の脈動の描写があるのだが、永田守弘はこのようにエクスタシー表現においては「イク」という台詞にいかなる表現を伴わせるかが重要であると論じた{{Sfn|永田|2016|pp=100 - 101}}。[[藍川京]]は、自らの作品『継母』を引き合いに出し、関係する相手としては継母という設定の方が他人という設定より官能小説向きだし、実際継母との性関係を扱った話は人気もあると述べている<ref>『女流官能小説の書き方』(藍川京、幻冬舎、2014年) 99~101頁 ISBN 978-4-34498334-2</ref>。
 
[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス]]は、親子の間には生物学的に性的には惹かれあわないという特徴があると考える{{Sfn|ロレンス|2017|p=252}}。ローレンスは、[[家族愛|家族の愛]]はあくまで基底的なものであり、それが大人同士のような愛に発展するなどということはありえないと論じた{{Sfn|ロレンス|2017|pp=286 - 287}}。その一方でローレンスは、仮にまったく肉体的なものでなかったとしても強烈な親の愛は子供の性的な中枢を刺激するものであると論じている{{Sfn|ロレンス|2017|pp=251 - 252}}。ローレンスは、精神的な近親相姦は本能的な嫌悪の対象に比較的なりにくいため肉体的な近親相姦より問題だと述べ{{Sfn|ロレンス|2017|p=250}}、思春期以後の家族は相互にタブーな存在として接触の制限が行われるべきだと主張した{{Sfn|ロレンス|2017|p=289}}。