「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

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=== ヴォロネジでの停滞 ===
南方軍集団は6月28日に[[クルスク]]方面からドンに向かって南東に攻撃を開始した。まず、[[第2軍 (ドイツ軍)|ドイツ第2軍]]と[[第4装甲軍]]、およびハンガリー第2軍が左翼となってドン河をめざし、30日には[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]がドネツ河を渡って右翼を担った。第4装甲軍に属する第48装甲軍団は7月3日にドン川に達し、7月6日から[[イリューシン設計局]]の航空機工場がある[[ヴォロネジ]]を2個師団の兵力により攻撃した。
 
一方、ソ連軍はドイツ軍が危惧した通りライヘル少佐が携えていた命令書を確保していた。しかし[[スターリン]]は、ドイツ軍はヴォロネジから[[オリョール]]、さらに[[モスクワ]]に向けて北上するだろうと考え、命令書を罠と判断する。これに基づき、[[フィリップ・ゴリコフ|フィリップ・ゴリコフ中将]]の[[ブリャンスク戦線|ブリャンスク方面軍]]は、ヴォロネジ市街地に拠点を構えて頑強に抵抗した。その結果、ドイツ第48装甲軍団は市街戦と補給に苦しみ、歩兵部隊の到着を得て7月13日にようやくヴォロネジを占領することができた。この影響で南方軍集団は足止めされ、ドン川下流の制圧に7月下旬までかかるが、その間にチモシェンコ元帥は残存兵力をドン川湾曲部、さらにその東方スターリングラードまで撤退させた。そもそも作戦の第一段階での目標は、ドン川西岸でソ連軍を捕捉し殲滅することだった。ドイツ軍はドン川東岸に侵攻することはできたものの、その間に得られた捕虜や鹵獲装備は思いのほか少なく、敵が秩序だった撤退を行っていることが推察された。ヴォロネジでの独ソ別々の思惑による停滞は、その後の展開に思わぬ影響を及ぼすこととなる。