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=== 名称 ===
古代においては、「馬的射(むまゆみいさせ)」「騎射(むまゆみ)」「矢馳せ馬(やはせむま)」と呼ばれていた{{Sfn|kb-Nipp}}<ref name=":0">{{Cite web |title=流鏑馬とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC-143950 |website=コトバンク |accessdate=2022-01-24 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉,デジタル大辞泉プラス,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。
古代においては、「馬的射(むまゆみいさせ
 
これが矢馳せ馬(やばせめ、やばせうま)」と変化し、さらに「やぶさめ」へと[[wikt:転訛|転訛]]し、その音変化に対して[[当て字]]されたのがが「流鏑馬」および「鏑流馬」であったと考えられている{{Sfn|kb-Nipp}}<ref name=":0">{{Cite web |title=流鏑馬とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC-143950 |website=コトバンク |accessdate=2022-01-24 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉,デジタル大辞泉プラス,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。
 
現代では[[小笠原流]]や[[武田流]]を始め「流鏑馬」の表記が多く使われている。
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『[[吾妻鏡]]』には[[源頼朝]]が[[西行]]に流鏑馬の教えを受け復活させたと記されている{{Sfnp|金子四郎家教|1992|p=100}}。[[鎌倉時代]]には「[[藤原秀郷|秀郷]]流」と呼ばれる技法も存在し、[[武士]]の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された。[[北条時宗]]の執権時代までに、[[鶴岡八幡宮]]では47回の流鏑馬が納められたとされる{{Sfnp|金子四郎家教|1992|p=100}}。だが、しかし、個人の武勇に頼っていた時代から、[[兵法]]や[[兵器]]が進化して[[足軽]]や[[鉄砲]]による集団戦闘の時代である[[室町時代]]・[[安土桃山時代]]と、時を経るに従い、一時廃れた。
 
[[江戸時代]]に入り、[[享保]]9年([[1724年]])、時の[[征夷大将軍|将軍]]、[[徳川吉宗]]の命を受けた[[小笠原流]]20代[[小笠原常春]]は、小笠原家の伝書を研究し新たな流鏑馬制定、古式と共に奥勤めの[[武士]]達に流鏑馬、[[笠懸]]の稽古をつける。享保13年([[1728年]])、[[徳川家重]]の世嗣ぎのために[[疱瘡]]治癒祈願として[[穴八幡宮]]北の[[高田馬場は長さ2町である。広さ2杖半ほど]](現在東京都新宿区西早稲田三丁目)幅1杖の芝て流鏑馬張るか執り行いこれを奉納しは縄を張っ(この10年後、無事疱瘡祈願成就した折に報賽とし再び行われその様子を絵巻砂を撒いてしたものが『流鏑走とす絵巻』であいちだん掘り下げるともある。両側の後、将軍家の厄除け、誕生祈願の際などは埒度々流鏑馬行われるようにな。左を男埒といい、高さは2尺3寸、右側は女埒といい、高さは2尺、木製でもあり、萩でも結ぶ
 
[[明治維新]]を経て幕府解体、また[[第二次世界大戦]]と以後の煽りを受けるなど三度の衰退を見るが、明治以降も継承され続け、現在に至る。
 
現在、流鏑馬は様式を多様に変化させつつも伝統を受け継ぎ、日本各地で盛んに行われ、観光の目玉となっている。また、スポーツ流鏑馬という名称で競技性を持たせた馬上弓術が[[乗馬]]倶楽部などにより新興され各所のルールで親しまれている。
 
=== 馬場 ===
馬を疾走させる直線区間で、通常2[[町 (単位)|町]](約218メートル)。進行方向左手に間を置いて3つの的を立てる。馬場から的までの距離は5m前後、的の高さは2m前後(流派や規定の違いにより、それぞれの距離にはばらつきがある)。射手は、[[狩衣|狩装束]]を纏い、[[ウマ|馬]]を疾走させ、連続して矢を射る。
 
=== 騎射三物 ===
馬上における弓術には、他に[[笠懸]](かさがけ)や[[犬追物]](いぬおうもの)があり、流鏑馬と合わせて「[[騎射三物]]」とされる<ref name=":0" />。的と射手との距離を10-15[[間]](約18-27メートル)に1つ置いたものを「笠懸」、竹垣で囲んだ馬場に150匹の[[イヌ|犬]]を放し、射手36騎が3手に分かれて犬を射るものを「犬追物」という。犬追物では、犬を傷つけないよう大型の[[鏑矢|鏑]]をつけた矢を用いる。
 
== 詳細 ==
以下、徳川氏での例について述べる。<!--各地で流鏑馬の名前でおこなわれているものには訛伝が多いそうです-->
 
馬場は長さ2町である。広さ2杖半ほどの中に幅1杖の芝を張るか、または縄を張って、中に砂を撒いて馬走とする。いちだん掘り下げることもある。両側には埒がある。左を男埒といい、高さは2尺3寸、右側は女埒といい、高さは2尺、木製でもあり、萩でも結ぶ。
 
的は3箇所に立てる。一の的までは48杖、一の的から二の的間は38杖、二の的から三の的間は37杖である。的と馬走との間は3杖であり、上手には5杖、7杖などに的を立てることもある。的は方1尺8寸、厚さ1分ほどの檜板である。的串の長さは3尺5寸ほどで、的を挟み、頂点を上下に(いわゆるダイヤ型に)立てる。