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松下電器産業のBTRONの開発部隊は松下グループで教育機器を作っていた[[松下通信工業]]に移ってBTRONの開発を続行した。1990年9月、松下通信工業から[[Panacom]](松下が販売していた富士通FMRシリーズの互換機)にBTRON1(BTRON/286)仕様OS「ET-Master」を搭載した「CEC仕様'90」準拠の教育用コンピュータが「PanaCAL ET」として発表されたが、「BTRON仕様」とは名乗らなかった。1990年7月に刊行された「CEC仕様'90」(『学校で利用されるコンピュータシステムの機能に関する調査報告書』)では、OSを規定せずにアプリケーションレベルでの規定の策定とし、また教育用パソコンとして教材の互換性に重きが置かれたため(例えばCEC仕様'90で策定された「CEC-BASIC」はNEC PC-8801/PC-9801標準の「[[N88-BASIC]]」互換だった)、平成元年改訂の新学習指導要領(数学A「計算とコンピュータ」数学B「算法とコンピュータ」)に合わせた教育用コンピュータとして、ほとんどの学校はマイクロソフト社のMS-DOSをOSとして採用したNEC PC-9801を選択した。1989年当時の教育市場の4割を握っていた富士通が「マルチメディアマシン」として全国の約200校の学校に貸与するなどして強力に推進した次世代機[[FM-TOWNS]]を選択した学校もそれなりにあったが、松下の「パナカル」を含め、それ以外のパソコンを選択して導入した学校は少なかった。1991年3月、松下は次こそは[[DOS/V]]でNECの牙城を崩すべく、AX陣営の残党とともに[[日本アイ・ビー・エム]]を盟主とする[[OADG]]陣営に参画。松下は1990年ごろにBTRONの開発を終了したらしい。CEC仕様の最終となる「CEC仕様'90」では、「CEC仕様'90」仕様に準拠した「CECマシン」が1994年までの5年間で全国の学校に40万台が配備される予定とされたが、松下以外のパソコンメーカーが「CECマシン」を作らず、松下もすぐに撤退したので、結局配備されなかった。
 
1988年1月にNHKで放映された「コンピューターの時代」シリーズ第4話『トロン誕生』では、[[山中俊治]]がデザインしたBTRONマシンのモックアップの前に座った坂村を案内人として、BTRONマシンの入力装置である「トロンキーボード」を開発中の沖電気青梅工場、このトロンキーボードと電子ペンを使用したコマンド入力システム(トロン作法)を開発中の東芝青梅工場、BTRON仕様OSを開発中の松下電器産業中央研究所、などにカメラが入り、その未来のコンセプトデザインが当時非常に話題となったが、上記の経緯で、教育用パソコン「CECマシン」の仕様策定が頓座したことをきっかけに、一般向けのBTRONマシンが発売されないうちにBTRONプロジェクトは衰退してしまった。(この番組に出演した東芝の小田一博は、CECが各社からの出向者の寄り合い部隊で確たる信念を持たなかったこと、まずAPIの仕様作成に注力すべきなのに(4年かけて)ハードの仕様を策定したことなど、[[Σプロジェクト]]と同じ失敗をしたと後に回想している。また、2003年4月にNHKで放映された「[[プロジェクトX]]」第111回『家電革命 トロンの衝撃』において、上記の経緯の裏にあたかもマイクロソフト社の陰謀があるかのような報道がなされたが、坂村の友人で、当時TRONにWindowsCEWindows CEを移植していた日本マイクロソフト元会長の[[古川享]]は「悪質な印象操作」と断じ、実際にBTRONの発展を阻害したのは通産省の官僚とマスメディアによる印象操作であり、通産省・総務省・文部省が計上した総計2300億円の国家予算に対しても、技術開発よりも予算欲しさの企業ばかり集まった「国家予算のバラマキ行政」と評している<ref>[https://finders.me/articles.php?id=3071 革新的だった国産OS「TRON」の普及を妨げた通産省とマスメディアの横槍。健全な業界発展を阻害したのは誰か?【連載】サム古川のインターネットの歴史教科書(4)] FINDERS</ref>。)
 
そのため、BTRONの一般ユーザーへの普及を目指し、松下のBTRON仕様OSに搭載されたエディタを作成するなどBTRON仕様OS用応用ソフトウェア開発の中心であったパーソナルメディア株式会社を中心として、1991年にBTRONソフトウェア開発機構が発足。パーソナルメディア社が松下からOEMを受け、松下のパソコンにBTRON1仕様OSを搭載した一般向けパソコンの「電房具」シリーズの第1弾となるノートパソコン「1B/note」が1991年8月に発表(9月発売)された。松下が開発したBTRON1仕様OSは(CECマシンを除いて)松下以外のパソコンへの移植を許可しておらず、当初はBTRON仕様OSが他社のパソコン向けに単体で発売されることは無かったが(そのため、BTRONが普及しなかったのは、松下がBTRON仕様OSを他社ハードに移植するのを禁止したためとの指摘もある<ref>『[https://www.sea.jp/office/seamail/1993/1993_8_4.pdf SEAMAIL Newsletter from Software Engineers Association Vol.8, No.4]』、p.38、ソフトウェア技術者協会、1993年8月</ref>)、1994年には松下のBTRON1仕様OSをPC/AT互換機に移植した「1B/V1」がパーソナルメディア社によって発売され、PC/AT互換機を所有する一般のパソコンユーザーでもBTRON仕様のOSを利用できるようになった。当時のBTRON仕様OSは、パソコンにおいてはビデオカードのドライバが無い(ビデオカードによるグラフィック表示支援が使えない)ために、起動や動作が早くても画面表示がカクカクで、競合OS(1994年当時は[[Windows3.1]]。Windowsがまともに動くスペックのPCは高額になるのと、ゲームなどのアプリが揃っていないので、当時はMS-DOSもまだ主流だが、1995年に[[Windows95]]が発売されると大ブームとなり、パソコンのOSはWindowsが主流になる)とは実用面で比較にならなかったが、「実身」「仮身」モデルに代表されるBTRON独特のシステムの熱烈な支持者がいたほか、組み込み用でよく利用されるTRON系OSでありながら曲がりなりにもGUIが利用できることから、開発用OSとしてもある程度の支持者がいた。