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[[雄略天皇]]の御代では[[秦酒公]]が離散の流れのある中で一族を再結集させ、確固たる勢力を築いたとされる。
 
「弓月」の[[朝鮮語]]の音訓が、百済の[[和訓]]である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。また、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説<ref>{{Cite web|https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi01.html|title=秦氏都市史|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi01.html|accessdate=2021-09-01|publisher=京都市歴史資料館情報提供システム}}</ref>。[[佐伯有清]]によると[[秦]]の[[始皇帝]]の苗字は[[秦 (姓)|秦]]氏ではなく、[[新羅]]系渡来氏族が渡来したが『[[新撰姓氏録]]』が書かれた815年、古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていたことから弓月君は秦の始皇帝の末裔と思われ出自が間違っている。([[笠井倭人]]・[[佐伯有清]])<ref>笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(小林行雄博士古稀記念論文集刊行委員会編『考古学論考』19892平凡社、1982年)</ref><ref>[佐伯:1994 369]</ref>。
 
『宋書』倭国伝では、通称「[[倭の五王]]」の一人の珍が元嘉15年(438年)「使持節都督[[倭]]・[[百済]]・[[新羅]]・[[任那]]・[[秦韓]]・[[慕韓]]六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称しており、明確に秦韓を一国として他と区別している。その後の倭王の斉、興、武の記事にも引き続き秦韓が現れる。(弓月君の帰化の伝承は、この秦韓の歴史に関係するとも考えられてる意見もある。)