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{{Infobox 人物
[[File:Max Mosley 1969 (Portrait).jpg|thumb|200px|マックス・モズレー(1969年)]]
| name = マックス・モズレー
'''マックス・ルーファス・モズレー'''(Max Rufus Mosley、[[1940年]][[4月13日]] - [[2021年]][[5月23日]])は、[[イギリス]]の[[弁護士]]で、[[国際自動車連盟]](FIA)の元会長。[[ロンドン]]出身。
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'''マックス・ルーファス・モズレー'''(Max Rufus Mosley、[[1940年]][[4月13日]] - [[2021年]][[5月23日]])は、[[イギリス]]の[[レーシングドライバー]]、[[弁護士]]、[[実業家]]で、[[国際自動車連盟]](FIA)の元会長。[[ロンドン]]出身。
 
== 経歴 ==
===生い立ち===
[[イギリスファシスト連合]]の指導者、かつドイツの[[アドルフ・ヒトラー]]の支持者として知られた[[庶民院]]議員第6代[[準男爵]][[オズワルド・モズレー]]とその2番目の妻で[[ミットフォード姉妹]]の一人[[ダイアナ・ミットフォード]]の息子として生まれる。

しかし出生前の[[1939年]]9月に[[第二次世界大戦]]が勃発し、その結果モズレーの出生直後に父親がアドルフ・ヒトラーとの親しい関係から逮捕される。
 
===弁護士===
大戦終結後に父親は釈放される。[[オックスフォード大学]]で[[物理学]]を修めた後、ロンドン法学院で[[弁護士]]資格を取得。辣腕弁護士として知られ、「ぶった斬りマックス」 (Max the Ax) とあだ名される。
 
===モータースポーツ===
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===FOCA===
その後[[ブラバム]]のオーナー、[[バーニー・エクレストン]]と共に[[フォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション|FOCA]](F1コンストラクター協会)の運営に携わり、エクレストンの法律アドバイザーとして活動する。1977年にマーチを辞めた後はF1を巡る[[国際自動車スポーツ連盟|FISA]]とFOCAの政治的対立(いわゆるFISA-FOCA戦争)において調停役を務め、1981年の[[コンコルド協定]]締結に貢献した
 
1977年にマーチを辞めた後はF1を巡る[[国際自動車スポーツ連盟|FISA]]とFOCAの政治的対立(いわゆるFISA-FOCA戦争)において調停役を務め、1981年の[[コンコルド協定]]締結に貢献した。
その後もチーム運営に携わり、1989年には、マーチで関係のあったニック・ワースの[[シムテック]]設立に協力。同チームは1994年から1995年にかけてF1選手権に参戦することとなる。
 
その後もチーム運営に携わり、1989年には、マーチで関係のあったニック・ワースの[[シムテック]]設立に協力。同チームは[[1994年]]から[[1995年]]にかけて、[[井上隆智穂]]や[[ローランド・ラッツェンバーガー]]をドライバーにF1選手権に参戦することとなる。
 
===FISA会長===
FIAの世界モータースポーツ評議会役員を経て、1991年のFISA会長選で[[ジャン=マリー・バレストル|ジャン=マリー・バレストル]]前会長を破り新会長に就任した。
 
===FIA会長===
FIAの世界モータースポーツ評議会役員を経て、1991年のFISA会長選で[[ジャン=マリー・バレストル|ジャン=マリー・バレストル]]前会長を破り新会長に就任。1993年にはFISAの吸収に伴い、FIA会長に就任する。FIA会長になる前の実績としては、[[グループC]]を滅ぼした人間と言われ、今後のF1の将来を心配されるなか、就任した。以後1997年、2001年、2005年と4年ごとに改選され、4期16年に渡りFIAの会長職を務めた。
 
*FIA会長就任当初から「'''安全性の改善'''」と「'''コスト削減'''」を謳い、モータースポーツ界の制度改革を推進していった。メーカーとチーム間の技術開発競争を問題視し、マシンの性能向上や開発費用の高騰に歯止めをかけるためレギュレーション変更を重ねてタイヤ、エンジン、電子制御装置などの性能を規制を実施している。
しかし、2008年に後述するセックススキャンダルが明るみに出たこと、特に[[第二次世界大戦]]時の[[ドイツ]]の[[ナチス党]]風[[コスチュームプレイ]]が周囲の反発を受け、2009年にはコスト削減案(バジェットキャップ)の導入を巡ってF1チーム協会([[フォーミュラ・ワン・チームズ・アソシエーション|FOTA]])と対立。同年の会長選挙に再出馬しないと表明し、任期切れをもってトップの座から退いた。
 
== ==改革路線 ====
*改革路線をコスト削減と安全性向上と言う方向性で行ったことは評価されているが、行き過ぎたコスト削減の発想とメーカーなどを無視した自己流規格(2レース・エンジン規定、エンジン開発の[[ホモロゲーション]]化、エンジン規格の統一など)を押し付ける場面が頻発し、エンジンメーカーにとって魅力的とは言えない規定を導入したことが反感を買う部分もあった。また、現在のF1もその路線を継承している状況なため、ファンからは以前よりレースの魅力がなくなったなどの批判をされることもある。そのため、自動車メーカー系チームへの厳しい姿勢から[[メルセデス・ベンツ]]、[[ルノー]]、[[BMW]]、[[本田技研工業|ホンダ]]、[[トヨタ自動車|トヨタ]]らが[[グランプリ・マニュファクチャラーズ・アソシエーション|GPMA]]を結成して新シリーズ発足を図ったこともあった。
 
*[[フォーミュラ1|F1]]において彼に関する象徴的な出来事は、1993年シーズン中にアクティブサスペンションなどのマシン設計に影響を与える分野のレギュレーション変更を決定し、1994年シーズンからその導入を行うと決定したことである。これについて、懸念があったにもかかわらず導入を断行。その結果、1994年シーズン序盤の負傷者の多発並びに[[アイルトン・セナ]]と[[ローランド・ラッツェンバーガー]]の事故死を招いた遠因となってしまった。また、彼の事故死の後、準備期間の確保が難しいにもかかわらず、安全性向上のための追加のレギュレーションの導入を強行したが、導入後に事故発生したこともあり、競技者側と衝突し一時的な緊張関係を生むなど、そのリーダーシップや規制の効果は一定の評価を得ているものの、競技者側の意向を汲まない強硬姿勢が幾度となく反発を招き、現在においてもこの時のFIAは失敗であったと批判されることも少なくない
 
彼らの事故死の後、準備期間の確保が難しいにもかかわらず、安全性向上のための追加のレギュレーションの導入を強行したが、導入後に事故発生したこともあり、競技者側と衝突し一時的な緊張関係を生むなど、そのリーダーシップや規制の効果は一定の評価を得ているものの、競技者側の意向を汲まない強硬姿勢が幾度となく反発を招き、現在においてもこの時のFIAは失敗であったと批判されることも少なくない。
 
また、現在のF1もその路線を継承している状況なため、ファンからは以前よりレースの魅力がなくなったなどの批判をされることもある。そのため、自動車メーカー系チームへの厳しい姿勢から[[メルセデス・ベンツ]]、[[ルノー]]、[[BMW]]、[[本田技研工業|ホンダ]]、[[トヨタ自動車|トヨタ]]らが[[グランプリ・マニュファクチャラーズ・アソシエーション|GPMA]]を結成して新シリーズ発足を図ったこともあった。
 
*2005年[[アメリカグランプリ|アメリカGP]]ではタイヤの安全性に問題を抱えた[[ミシュラン]]側の「シケイン設置案」要請を受けたがFIA側は「速度を監視する事と速度過剰で処罰を科す案」を双方提示したが話し合いがつかず、その結果ミシュラン系チームの撤退(自主リタイア)という異常な事態が起きてしまった<ref>[https://web.archive.org/web/20050622024656/http://www.fia.com/mediacentre/Press_Releases/FIA_Sport/2005/June/200605-01.html 2005 UNITED STATES GRAND PRIX] - FIAプレスリリース 2005年6月20日(2005年6月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
 
====セックススキャンダル====
*以上のことから、2009年のFIA会長選挙ではアメリカ自動車協会([[アメリカ自動車協会|AAA]])・[[日本自動車連盟]](JAF)・ドイツ自動車連盟([[ADAC]])などが[[アリ・バタネン]]を推し、モズレーらが推す[[ジャン・トッド]]と激しい選挙戦を繰り広げたことから、少なくとも競技者側は不満を抱えていることが浮き彫りとなった。
 
さらに、2008年に後述するセックススキャンダルが明るみに出たこと、特にイギリスの[[タブロイド紙]]で公表された[[ドイツ]]の[[ナチス党]]風[[コスチュームプレイ]]が周囲の反発を受けることになる。
 
====辞任====
しかし、2008年に後述するセックススキャンダルが明るみに出たこと、特に[[第二次世界大戦]]時の[[ドイツ]]の[[ナチス党]]風[[コスチュームプレイ]]が周囲の反発を受け、2009年にはコスト削減案(バジェットキャップ)の導入を巡ってF1チーム協会([[フォーミュラ・ワン・チームズ・アソシエーション|FOTA]])と対立。同年の会長選挙に再出馬しないと表明し、任期切れをもってトップの座から退いた。
 
===退任後===
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2009年には、モズレーの息子であるアレクサンダーがヘロインの過剰摂取で死亡している。アレクサンダーは元学友とレストランを共同経営しており、数年間に渡り薬物中毒だった<ref>[http://www.dailymail.co.uk/news/article-1177954/Max-Mosleys-son-Alexander-died-desk-heroin-overdose.html "Max Mosley's son Alexander 'dies at his desk from heroin overdose' Daily Mail 2009年5月6日"]</ref>。
 
===死去===
2021年5月23日死去。{{没年齢|1940|4|13|2021|5|23}}。当初死因は「末期がんによるもの」とされたが、翌2022年3月29日に行われた検死法廷において、がんとの診断を受けたのは事実であるものの、直接の死因はそれを苦にした拳銃[[自殺]]であったことが、明らかになった<ref>[https://www.bbc.com/news/uk-england-london-60919994 Former F1 boss Max Mosley shot himself after terminal cancer diagnosis] - BBC・2022年3月30日</ref><ref>[https://jp.reuters.com/article/uk-mosley-idJPKCN2LR03G F1=元FIA会長モズレー氏、検死法廷で自殺と判明 昨年死去] - ロイター 2022年3月30日</ref>。
 
== 改革路線 ==
*FIA会長になる前の実績としては、[[グループC]]を滅ぼした人間と言われ、今後のF1の将来を心配されるなか、就任した。
*FIA会長就任当初から「'''安全性の改善'''」と「'''コスト削減'''」を謳い、モータースポーツ界の制度改革を推進していった。メーカーとチーム間の技術開発競争を問題視し、マシンの性能向上や開発費用の高騰に歯止めをかけるためレギュレーション変更を重ねてタイヤ、エンジン、電子制御装置などの性能を規制を実施している。
*[[フォーミュラ1|F1]]において彼に関する象徴的な出来事は、1993年シーズン中にアクティブサスペンションなどのマシン設計に影響を与える分野のレギュレーション変更を決定し、1994年シーズンからその導入を行うと決定したことである。これについて、懸念があったにもかかわらず導入を断行。その結果、1994年シーズン序盤の負傷者の多発並びに[[アイルトン・セナ]]と[[ローランド・ラッツェンバーガー]]の事故死を招いた遠因となってしまった。また、彼の事故死の後、準備期間の確保が難しいにもかかわらず、安全性向上のための追加のレギュレーションの導入を強行したが、導入後に事故発生したこともあり、競技者側と衝突し一時的な緊張関係を生むなど、そのリーダーシップや規制の効果は一定の評価を得ているものの、競技者側の意向を汲まない強硬姿勢が幾度となく反発を招き、現在においてもこの時のFIAは失敗であったと批判されることも少なくない。
*2005年[[アメリカグランプリ|アメリカGP]]ではタイヤの安全性に問題を抱えた[[ミシュラン]]側の「シケイン設置案」要請を受けたがFIA側は「速度を監視する事と速度過剰で処罰を科す案」を双方提示したが話し合いがつかず、その結果ミシュラン系チームの撤退(自主リタイア)という異常な事態が起きてしまった<ref>[https://web.archive.org/web/20050622024656/http://www.fia.com/mediacentre/Press_Releases/FIA_Sport/2005/June/200605-01.html 2005 UNITED STATES GRAND PRIX] - FIAプレスリリース 2005年6月20日(2005年6月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
*改革路線をコスト削減と安全性向上と言う方向性で行ったことは評価されているが、行き過ぎたコスト削減の発想とメーカーなどを無視した自己流規格(2レース・エンジン規定、エンジン開発の[[ホモロゲーション]]化、エンジン規格の統一など)を押し付ける場面が頻発し、エンジンメーカーにとって魅力的とは言えない規定を導入したことが反感を買う部分もあった。また、現在のF1もその路線を継承している状況なため、ファンからは以前よりレースの魅力がなくなったなどの批判をされることもある。そのため、自動車メーカー系チームへの厳しい姿勢から[[メルセデス・ベンツ]]、[[ルノー]]、[[BMW]]、[[本田技研工業|ホンダ]]、[[トヨタ自動車|トヨタ]]らが[[グランプリ・マニュファクチャラーズ・アソシエーション|GPMA]]を結成して新シリーズ発足を図ったこともあった。
*以上のことから、2009年のFIA会長選挙ではアメリカ自動車協会([[アメリカ自動車協会|AAA]])・[[日本自動車連盟]](JAF)・ドイツ自動車連盟([[ADAC]])などが[[アリ・バタネン]]を推し、モズレーらが推すジャン・トッドと激しい選挙戦を繰り広げたことから、少なくとも競技者側は不満を抱えていることが浮き彫りとなった。
 
== セックス・ビデオ流出事件 ==