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=== 生い立ちと家族 ===
'''バシリスクス'''バルカン半島生まれたと推定さ思わている。生年月日は不明。兄弟には、東ローマ帝国皇帝レオ1世(457-474年)の妻であり、後の東ローマ皇帝ヴェリナがいたの弟である。歴史家[[ステファン・クラウトシック]]は、バリスクスの甥である[[アルマトゥス]][[オドア]]というの兄であったためことから、バシリスクスはオドアルの叔父でもあり、したがって野ったと主張している。{{sfn|Elton|1998}}{{sfn|Krautschick|1986|pp=344–371344-371}} ただし、この主張議論ヴォルフラム・ブランデス歴史家 [[Wolfram Brandes]], {{sfn|Elton|1998}}{{sfn|Brandes|1993|pp=407–437407-437}} やヒュー・エルトンらと [[Hugh Elton]] によって否定反論されている{{Efn|同氏。Eltonは、クラウトシックKrautschick主張議論は単一の断片的なギリシャの情報源語資料に依存しており、彼の主張を議論は受け入れられるものにしていると述べているが、彼の民族性やオドアケルOdoacerとの関係に言及している現代の情報源資料まったくないこと無視している述べ指摘している。}}{{sfn|Elton|1998}}{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=212}} 。バリススは[[アエリア・ゼノニス{{Efn|ゼノニスの出自は不明である。}}]]と結婚し、彼女との間に息子[[ーカルク(バシリスコスの息子)|マルクス]]をもうけた。{{sfn|Eltonエルトン|1998}} {{sfn|ヘリン|2016|pp=22-23}}。ゼノニスの出自は不明だが、バシリスの宗教政策を推し進めたとする著者もいることから、彼女[[ミアフィシテ]]だった可能性がある。{{sfn|ヘリン|2016|pp=22-23}} また、バジリスカスは皇帝[[ユリウス・ネポスの妻の叔父]]({在位}474-475/480)して婚姻関係にあり、{{sfn|MacGeorgeハンドリー|20022010|p=57134}}ユリウス・ネポスと結婚していたの妻の叔父である{{Sfnsfn|Handleyマクゲロ|20102002|p=13457}}。 ゼノニスはバジリススの甥であるアルマトゥスを恋人にしたと言われていますビザンティストの[[ジョン・バグネル・ベリーJ.B.Bury]]は、{{lang|la|[[スーダ辞典Suda]]}}、[[Candidus Isaurus|スーダCandidus]]、[[カンディダス・イサウルスMalchus (historian)|Malchus]]やマルクス 文献資料引用要約して、次以下のように述べています。 {{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=148}}{{sfn|Bury|1923|p=392}}
{{blockquote|バシリスコはアルマトゥスを近親者として、皇后ゼノニスと自由に交際することを許した。二人の交際は親密になり、二人とも並外れた美貌の持ち主であったため、互いに溺愛するようになった。二人は目を見合わせ、絶えず顔を向けて微笑み合い、隠さなければならない情熱が、ドゥールとティーンの原因となった。彼らは宦官ダニエルと助産婦マリアに悩みを打ち明けたが、彼らは二人を引き合わせるという治療法でほとんど病気を癒すことはできなかった。そして、ゼノニスはバジリスコスを説得して、自分の恋人に街の最高の役職を与えるようにした。|4={{sfn|Bury|1923|p=392}}}}
 
=== 軍歴 ===
[[ファイル:Europe_and_the_Near_East_at_476_AD.png|代替文=A colored drawing of Europe in 476 A.D., showing the borders of states at the time by different colors, with the Roman Empire in yellow, and the Vandal kingdom in orange|右|サムネイル|A map of Europe in A.D. 476, showing the Vandal Kingdom in orange, and the Eastern Roman Empire in yellow]]レオは皇帝[[マルキアヌス]]の死後、457年に東ローマ帝国の王位に就いた。[[軍師アスパル]]は、マルキアンを選んだのと同じように、彼をこの地位に選んだのである。アスパルは5世紀半ばから帝国内で大きな影響力を持ち、{{sfn|Nathan|1998}}{{sfn|Lee|2013|p=96}}マルキアンとレオに対して大きな力を行使していた{{sfn|Ostrogorsky|1956|pp=61-62}}。バシリスコスはレオの下で軍務に就き、465年には東方の[[ローマ領事|領事]]となり、西方の領事として[[フラウィウス・ヘルメネリクス]]が就任した。{{sfn|Elton|1998}}{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=212}} バジリスカスは464年、467/468年までこれを維持した。この間、トラキアで[[フン族]]とゴート族に対して多くの勝利を収めた。466/467年には、[[アナガスト]]、アスパル、[[オストリス]]と共に、両者の混合集団との戦争で軍を率いた{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=212}}。彼はある時点でパトリシアン(古代ローマとなり、468年に初めてそのように言及された。 {{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|pp=212-213}} 。
 
[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]は[[マルキアヌス|マルキアヌス帝]]の逝去を受け、457年、東ローマ皇帝に即位した。{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|pp=714–715}}{{Efn|マルシアンを抜擢したのと同じように、軍司令官アスパルが彼を抜擢した。{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|pp=714–715}}{{sfn|Ostrogorsky|1956|p=61}}
 
アスパルは5世紀半ばから帝国内で大きな影響力を持ち、{{sfn|Nathan|1998}}{{sfn|Lee|2013|p=96}}マルキアンとレオに対して大きな力を行使していた{{sfn|Ostrogorsky|1956|pp=61-62}}。バシリスコスはレオの下で軍務に就き、465年には東方の[[ローマ領事|領事]]となり、西方の領事として[[フラウィウス・ヘルメネリクス]]が就任した。{{sfn|Elton}} {{sfn|Jones|Martindale|Morris}}1980|p=212}}。バジリスカスは{{lang|la|[[Magister militum#Per Thracias|magister militum per Thracias]]}} {{circa}}で、{{lang|la|]の地位を与えられています。464年、467/468年までこれを維持した。この間、トラキアで[[フン族]]とゴート族に対して多くの勝利を収めた。466/467年には、[[アナガスト]]、アスパル、[[オストリス]]と共に、両者の混合集団との戦争で軍を率いた{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=212}}。彼はある時点で{{lang|la|[[パトリシアン(古代ローマ)|patricius]]}}となり、468年に初めてそのように言及された。 {{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|pp=212-213}} 。
 
466年頃、レオはアスパルの支配から自らを解放しようとした。彼は[[イサウロス人]]の支援を利用し、イサウロス人の首長[[ゼノ(皇帝)|ゼノ]]({統治}474-475、476-491)とその娘[[アリアドネ(皇后)|アリアドネ]]を結婚させて支援と引き換えにする。これは東方帝国の政策に大きな変化をもたらし、特に西方からの軍事援助の要請を無視する政策を終わらせた{{sfn|Ostrogorsky|1956|p=61}}。467年4月12日、マルキアヌスの娘婿である[[アンセミウス]]({在位}467-472)がレオによって西方皇帝に就任すると、[[ヴァンダル]]に使節が送られた。ガイセリック王は、[[イタリア]]や西ローマ王位に干渉しないよう警告するとともに、その旨を伝えるため、ガイセリック王は彼らが433年に制定された条約に違反していると非難し、戦争の準備をした。ヴァンダル人が[[アレクサンドリア]]への侵攻を準備しているという噂がコンスタンチノープルで広まったのかもしれない{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=498}}{{sfn|Bury|1923|p=335}}。その結果、468年にバジリスカスはヴァンダル人に対する遠征の指揮を任され、{{sfn|Elton|1998}}{{sfn|Ostrogorsky|1956|p=61}}{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=213}}その時点で{{lang|la|[[magister militum praesentalis]]}} に昇進したと考えられる。 {{sfn|ジョーンズ|マーティンデール|モリス|1980|p=213}}となる。艦隊は1,113隻からなり、バシリスクスの指揮下に10万人以上の兵士がいたとされる{{efn|歴史学者[[ウォーレン・トレッドゴールド]]は、ビザンティン帝国行政官[[リディアスのジョン]]が与えた総兵力40万という数字を論拠に、プロコピオスの10万という数字には船員とオールマンが含まれていないと論じている。 {{sfn|トレッドゴールド|1995|pp=190-191}}}{sfn|ブリー|1923|p=335}}には、遠く[[エーランド]]、[[スウェーデン]]からの傭兵も含まれている。{{sfn|クリコウスキー|2019|p=224}}。ブリーによれば、レオはベリーナとアスパルの両方から影響を受けてバシリスクスを選んだが、彼はそれを「無能で信頼できない」と表現している。さらに彼は、アスパルが意図的に貧弱な指揮官を選び、ヴァンダルの弱体化によってレオが強くなるのを防ごうとしたと述べている{{sfn|Bury|1923| p=335}}。歴史家[[Gerard Friell]]と[[Stephen Williams (historian)|Stephen Williams]]はこれを否定するが、Verinaが彼の指名を押し進め、アスパルが反対しなかったことを認めている{{Sfn|Friell|Williams|2005|pp=178-179}} 。歴史家[[ピーター・ヘザー]]は、この時点でバシリスコスは帝国のバルカン辺境で大きな成功を収めて帰ってきたばかりだったと指摘している{{sfn|Heather|2007|p=401}}。
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西ローマの指揮官であった[[Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]は、[[サルデーニャ]]を攻略し、ヴァンダルの首都[[カルタゴ]]の近くで東軍と連携するために出撃することになる。バシリスコスは軍の大部分とともに直接カルタゴに向かうことになり、東軍の{{lang|la|[[comes rei militaris]]}}は、「カルタゴに向かう。[エデッサのヘラクリウスは東方軍を[[ローマ帝国エジプト|エジプト]]に集め、[[トリポリタニア]]で下船し、陸路カルタゴに接近、ヴァンダル人は3地域で戦うことを余儀なくされることになった。マルケリヌスはサルデーニャを難なく占領し、ヘラクリウスは[[リビア・トリポリ]]の要塞を奪い、ともにバシリスクス軍との接続に向かう。{{sfn|スチュワート|2020|p=106}}{{sfn|ブリー|1923|p=336}}。バジリスコスの[[ガレー船]]はヴァンダル艦隊を[[シチリア]]付近に散らし、[[プロコピウス]]によると、ガイセリックはカルタゴ攻略の決定的な一撃を恐れて全てを放棄させたとされる。しかし、バジリスクスはその優位を崩さず、カルタゴから{{convert|60|km|mi}}離れた[[ボン岬]]に軍を休め、{{sfn|Bury|1923|pp=336-337}} {{sfn|Heather|2007|p=402}}カルタゴとは違って鎖で遮断されておらず風が相手艦を沿岸に追い込む、{[ウチカ・チニシア|ウティカ}]という港にも近かったことから戦略を立てた。 {{sfn|Heather|2007|p=402}} 歴史家[[Michael Kulikowski]]、Friell、Williamsによると、ガイセリックは平和に興味があると見せかけ、準備期間を確保するために5日間の真実を提案したそうです{{sfn|Kulikowski|2019|p=224}}{{Sfn|Friell|Williams|2005|pp=178-179}}。バジリスコスは、ヴァンダルとの妥協点を見出すために、戦争に反対するアスパルの意向を汲んで受け入れたのである{{Sfn|Friell|Williams|2005|pp=261-262}}。ヘザーはローマ人が海戦を避けることを強く意図していたことを指摘し、{{sfn|ヘザー|2007|pp=401-402}}、考古学者[[ジョージ・バス(考古学者)]は、これがバシリスクスがヴァンダルを攻撃するのを躊躇した理由かもしれないと指摘している。{{sfn|ヘザー|2007|p=310}}{{sfn|Bass|1972|p=134}}。
 
コンスタンチノープルに戻ったバジリスカスは[[アヤソフィア|聖ソフィア教会]]に避難したが、ヴェリーナが彼に代わってレオに赦免されるよう取り次いだ。この後も{{lang|la|magister militum praesentalis}} {{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=213}}{{sfn|Kulikowski|2019|p=241}} は残ったかもしれないが、主にプロポンティス川[[ネアポリス(トラキアシェルソンス)|ヘラクレア]]で引退生活を送る{/{sfn|Bury|1923|p=337}}. アスパルはバシリスコスに遠征を裏切るように仕向け、ヴァンダル族に同調し、レオに代わって彼を皇帝にすることを約束した疑いがある{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=167}}{{sfn|Bury|1923|p=318}}。FriellとWilliamsもこれを否定し、スケープゴートを見つける必要性はこのような災害ではよくあることで、この告発はありえないことだとコメントしている{{Sfn|Friell|Williams|2005|pp=178-179}}.ある資料の[[ヒダティウス]]は、アスパルが疑惑を口にしたために階級を剥奪されたと述べているが、歴史家 [[A. H. M. ジョーンズ]]、[[ジョン・ロバート・マーティンデール]]、[[ジョン・モリス (歴史家)|ジョン・モリス]]は、これはほぼ間違いなく、帝国の軍事的弱点に関する情報を[[ササン朝]]に与えた息子の[[アルダブル(領事447)]]の不名誉に関する混乱であるとしている{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|ppsfn|Jones|Martindale|Morris|1980|pp=136 & 167}} 。
ガイセリックは多数の[[火船]]を擁する新艦隊を編成し、順風に助けられて[[ボン岬の戦い(468年)|Battle of Cape Bon]]でローマ艦隊に襲いかかる。ローマ艦隊は火船、悪風、奇襲が重なり、半数が壊滅状態に陥った。バシリスコスは残りの艦隊とともにシチリア島に逃れ、マルケリヌスの軍と統合した。彼らの士気と補給によって勝利がもたらされたかもしれないが、マルケリヌスは暗殺された。まだカルタゴに到達していなかったヘラクリウスは来た道を通って東ローマ帝国に戻り、バシリスクスはコンスタンティノープルに戻った。{{sfn|Kulikowski|2019|p=224}}{{sfn|Bury|1923|pp=336-337}}。艦隊の軍備の総費用は{{convert|130000|lb}}の金であった{{efn|Procopiusはこの{{convert|130000|lb}}という数字を出しているが、リディアスのジョンは{{convert|65000|lb}}という金と{{convert|700000|lb}}銀の数字を出しており、これは1。 ジョンはこれをカンディドゥスから得たようで、カンディドゥスは東西の[[プラエトリア総督]]の財宝から{{convert|47000|lb}}の金が、[[聖なる大公]]の財宝から{{convert|104000|lb}}が提供されていると述べている。{{convert|17000|lb}}の金、70万の銀の一部は没収された財産で構成された私的財産から、一部はアンセミウスの埋蔵金からである。{{sfn|Bury|1923|loc=Chapter X fn. 95}}}{{sfn|Ostrogorsky|1956|p=61}}{{sfn|Bury|1923|p=337}} 東帝国の全財産よりも多く、東帝国は30年以上破産を免れない状態になった。{{sfn|Bury|1923|p=337}}
 
コンスタンチノープルに戻ったバジリスカスは[[アヤソフィア|聖ソフィア教会]]に避難したが、ヴェリーナが彼に代わってレオに赦免されるよう取り次いだ。この後も{{lang|la|magister militum praesentalis}} {{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=213}}{{sfn|Kulikowski|2019|p=241}} は残ったかもしれないが、主にプロポンティス川[[ネアポリス(トラキアシェルソンス)|ヘラクレア]]で引退生活を送る{/sfn|Bury|1923|p=337}}. アスパルはバシリスコスに遠征を裏切るように仕向け、ヴァンダル族に同調し、レオに代わって彼を皇帝にすることを約束した疑いがある{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=167}}{{sfn|Bury|1923|p=318}}。FriellとWilliamsもこれを否定し、スケープゴートを見つける必要性はこのような災害ではよくあることで、この告発はありえないことだとコメントしている{{Sfn|Friell|Williams|2005|pp=178-179}}.ある資料の[[ヒダティウス]]は、アスパルが疑惑を口にしたために階級を剥奪されたと述べているが、歴史家 [[A. H. M. ジョーンズ]]、[[ジョン・ロバート・マーティンデール]]、[[ジョン・モリス (歴史家)|ジョン・モリス]]は、これはほぼ間違いなく、帝国の軍事的弱点に関する情報を[[ササン朝]]に与えた息子の[[アルダブル(領事447)]]の不名誉に関する混乱であるとしている{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|pp=136 & 167}} 。
 
After the failure of the invasion of Africa, Aspar gained power once more, and [[Patricius (Caesar)|Patricius]], his son, married Leo's daughter [[Leontia Porphyrogenita]] in 470, making Patricius the presumptive heir.{{sfn|Ostrogorsky|1956|p=62}} Historian [[L. M. Whitby]] suggests this may have been a ploy to lull Aspar into a sense of security.{{sfn|Whitby|2015}} When anti-German sentiment rose up, Aspar and Leo fought over Aspar's influence, leading Leo to have him assassinated over suspicions of plots against him.{{sfn|Ostrogorsky|1956|p=62}}{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=168}} Basiliscus supported Leo in his power struggle against Aspar, and subsequently [[Theodoric Strabo]], in 471/472.{{sfn|Elton|1998}}{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|p=213}} Aspar and his son Ardabur were killed in 471 on Leo's orders, and Patricius who was severely wounded, was stripped of his position as {{lang|la|caesar}} and divorced from Leontia. After this, Zeno gained more power over the court.{{sfn|Ostrogorsky|1956|p=62}} Theodoric Strabo attempted to avenge Aspar and marched against Constantinople, but was pushed back by Basiliscus and Zeno. A little later, he sent a series of demands to Leo in the capital and attacked [[Arcadiopolis]] and [[Philippopolis (Thrace)|Philipopolis]], but was forced to negotiate soon after due the lack of supplies.{{sfn|Jones|Martindale|Morris|1980|pp=1073–1074}}