削除された内容 追加された内容
Clomproan (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 曖昧さ回避ページへのリンク
Clomproan (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
481行目:
アメリカ合衆国においては政治家でもある[[ルイス・リビー]]が、1996年に『[[ジ・アプレンティス (小説)|ジ・アプレンティス]]』という小説を発表した。この小説は1903年の日本を舞台とし、さまざまな性的場面が描写されているが、その中には日本におけるオジ姪相姦についての描写もあった<ref>{{cite web|url=http://www.salon.com/life/broadsheet/2005/11/01/libby_novel|title=How unfunny are Scooter's sex scenes?|language=英語|first=Rebecca|last=Traister|work=Salon.com|publisher=Salon Media Group|date=2005-11-01|accessdate=2011-06-26}}</ref>。リビーはその後、副大統領[[ディック・チェイニー]]の首席補佐官も務めたが、合衆国政府がイラク戦争において[[大量破壊兵器]]をサッダーム・フセイン政権下のイラクが所有しているという[[プロパガンダ]]を正当化するため、[[米中央情報局]] (CIA) のエージェントの身分の意図的な[[情報漏洩]]を行ったとする[[プレイム事件]]で、リビーが主導者の隠蔽目的の偽証罪で逮捕・起訴されたことで、この書物がメディアの脚光を浴びることになった。
 
== 文学創作物表現における近親相姦 ==
{{seealso|大衆文化における近親相姦||文学における近親相姦|映画とテレビ番組における近親相姦}}
[[アリストテレス]]は『[[詩学 (アリストテレス)|詩学]]』において創作物理論を展開しており、この中ではソポクレスの『[[オイディプス王]]』が悲劇作品の傑作としてしばしば引き合いに出されているが<ref>{{Harvnb|ソポクレス|1967|p=126}}(訳者解説部分、初版本の頁数)</ref>、[[藤沢令夫]]はソポクレスの作品が[[アイスキュロス]]の関連作品に比して恐ろしいのは、オイディプスが父親を殺し母親と結婚する事態になったのは自分自身の[[ダイモーン]]が原因であって、そもそも父親である[[ライオス]]がオイディプスという子供を作ったせいなどではないとされている点にあるという<ref>{{Harvnb|ソポクレス|1967|p=124}}(訳者解説部分、初版本の頁数)</ref>。[[河合祥一郎]]は、ソポクレスが『オイディプス王』で主題としたのは、日本語で「運」などと訳される「[[テュケー]]」であるとする<ref>{{Harvnb|ソポクレス|2017|p=134}}(訳者解説部分)</ref>。なお、[[エウリピデス]]の『[[フェニキアの女たち]]』ではイオカステはオイディプスとの間にできた息子達が死ぬまで生きていることになっているが、これはソポクレスはイオカステは「母」でもあるが「女」でもあるとするのに対し、エウリピデスはイオカステはあくまで「母」であると解したためだと河合祥一郎は論じている<ref>{{Harvnb|ソポクレス|2017|pp=136 - 137}}(訳者解説部分)</ref>。ソポクレスの『[[コロノスのオイディプス]]』では、オイディプスは神霊となるが、こんな話にしたのは[[ペロポネソス戦争]]で滅亡の可能性があったアテネの人々に対して、逆境に耐え不滅となった存在を提示したかったからではないかと[[吉田敦彦]]は論じている{{Sfn|吉田|2013|pp=279 - 280}}。[[マルキ・ド・サド]]は古典的悲劇のような体裁で『ユージェニー・ド・フランヴァル、悲惨物語』という近親相姦を扱った短編を執筆しているが、[[澁澤龍彦]]によれば父親と娘が一緒に家庭というものに対し反旗を翻すこの短編は、誤魔化してはいるが結局のところ作者自身の反家庭思想が表現されている作品なのだと論じている<ref>『ソドム120日(河出文庫版)』(マルキ・ド・サド著、澁澤龍彦訳、河出書房新社、1991年、原書である桃源社版は1966年初版発行) 309・310頁(訳者あとがき部分) ISBN 978-4-309-46081-9</ref>。澁澤龍彦は、近親相姦はこの上なく甘美なものだ、という固定観念を抜きがたく思っていると告白した上で、理由について相手の中に自分の自己愛を注入し、しかもそれを自分の目で見ることが出来るというユートピア的状況を想像してしまうからではないかとした<ref>澁澤龍彦『少女コレクション序説』,[[中央公論新社]],1985年,98頁 ISBN 978-4-12-201200-4</ref>。