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電波デビューは、1965年頃、[[豆腐|豆腐屋さん]]の協会の[[コマーシャルメッセージ|CM]]が最初<ref name="W平凡850412">{{cite journal |和書 |author = 三浦弘子 |title =三浦弘子野次馬インタビュー(28) ゲスト 小林克也 『一時期、仕事が減ったころは原宿で古着屋も経営。チラシまきもやりました』 |journal = 週刊平凡 |issue = 1985年4月12日号 |publisher = 平凡出版 |pages = 122–127頁 }}</ref>。テレビは『ジーン・ケリーショー』の[[ナレーション]]が最初だが、外国の人名や単語を英語の発音通り喋ったら、[[ディレクター]]から「あまり英語っぽい発音だと聞く人が嫌う、日本語英語になっていない」と怒られた<ref name="W平凡850412"/>。
 
1970年、『バブリング・ポップス』(ラジオ関東 = 現・[[アール・エフ・ラジオ日本]])のDJでラジオデビュー<ref name="anincline"/><ref name="40年男" />。この番組は[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]]の新譜(主に洋楽)を紹介する番組でその英語力と声質を活かし、一気にラジオ界の寵児となる<ref name="dj"/><ref>[https://web.archive.org/web/20081004021035/http://www.j-wave.co.jp/special/visionaryworld/20-archives.html J-WAVE 81.3 FM : VISIONARY WORLD](Archive)</ref>。FENをまねて[[導入部|イントロ]]に歌手のこぼれ話やジョークも交えトークを入れたら、それがウケて仕事が次々と舞い込んだという<ref name="tokyo2009"/>。
 
1974年にラジオのレギュラーが3本一気に終了し、収入がガタ落ちした<ref name="W平凡850412"/>。マンションを買う予定だった金を[[資本|元手]]に、[[原宿]]で古い[[蝋管|円筒形のレコード]]や[[ブリキ#ブリキの玩具|ブリキのおもちゃ]]など、アメリカの小物を置く雑貨店を開く<ref name="W明星830428"/><ref name="W平凡850412"/>。自身でアメリカに買い付けに行き、よく持ち帰ったのが[[ネオンサイン]]<ref name="W明星830428"/>。[[原宿駅]]前で[[チラシ#チラシ、ビラ、フライヤーの呼び名の使い分け、由来|ビラ配り]]もした<ref name="W平凡850412"/>。そのうち[[古着]]ばかり売れるようになり収支はトントンで7年間店を続けた<ref name="W平凡850412"/>。