「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
190行目:
包囲されたドイツ第6軍と枢軸国軍の将兵30万余りのうち、2万5,000人の傷病兵などが空軍によって救出されたが、パウルス元帥と24人の将軍を含む、生き残りの9万6000人が降伏した<ref name = "stahl59"/>。[[捕虜]]の運命は過酷で、ベケトフカの仮収容所まで雪道を徒歩で移動する際に落伍した将兵は、そのまま見捨てられ凍死するかソ連兵に殺害された。ソ連軍は自軍に支給される食料の半分を捕虜に回したものの全員には行き届かず、さらに仮収容所で[[発疹チフス]]が大流行し、数週間のうちに約5万人が死亡した。
 
生存者はその後、中央アジアや[[シベリア]]の[[強制収容所|収容所]]に送られるが、ここでも過酷な労働で多くの者が命を落とし、戦後に生きて祖国へ帰国できたのは僅か6,000人であった<ref group="注釈">ヒトラーの甥(姉の子)である[[レオ・ラウバル|レオ・ルドルフ・ラウバル]](ヒトラーの愛人と噂された[[ゲリ・ラウバル]]の弟)は負傷していたもののヒトラーに仲間と戦うよう命じられ、捕虜となったが戦後に解放されて帰国した。他にもう一人の甥(異母兄の子)ハインツ・ヒトラーも捕虜となるが捕虜収容所で死亡した。従兄弟の子ハンス・ヒトラーも従軍していたが、からくも包囲網を逃れる事ができた。また、[[アルベルト・シュペーア|アルベルト・シュペーア軍需相]]の弟エルンスト一等兵もこの戦いで行方不明となっている。</ref>。しかし、パウルス元帥や捕虜となった軍たちは優遇された。校の中にはザイトリッツのように、「[[ドイツ将校同盟]]」の議長として反ヒトラー宣伝に積極的に協力する人物もいた。
[[画像:Disfatta.jpg|thumb|捕虜となり強制収容所まで歩かされるドイツ兵たち。一列10人としても10万人に近い捕虜の列がいかに長いかを物語るであろう。落伍した兵は射殺された。]]