削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
37行目:
=== 室町時代 ===
当主になった盛見は義弘時代の栄華を取り戻すため、[[北九州]]方面に進出した。了俊の後任となった九州探題[[渋川氏]]に代わって北九州を担当、幕府の信任を得て[[豊前国]]守護にも任命されたが、[[少弐満貞]]・[[大友持直]]との戦いに敗れ、[[永享]]3年([[1431年]])に敗死した。しかし、跡を継いだ甥の[[大内持世]](義弘の遺児)は盛見に匹敵する人物であり、6代将軍[[足利義教]]の信任を受け[[筑前国|筑前]]守護に任じられ、[[少弐氏]]・[[大友氏]]を征伐するなど、大内氏の北九州における優位を確立した。また、この頃[[山口氏]]の系統が興った。
 
[[大内持世]]は[[嘉吉]]元年([[1441年]])の[[嘉吉の乱]]に巻き込まれ非業の死を遂げるが、いとこで養子の[[大内教弘]](盛見の子)が勢力を引き継いだ。
 
その一方で、大内氏の歴代当主の家督継承時にはさまざまな理由で嫡子継承や円滑な家督継承が行われず、室町期の兄弟間の家督争いだけでも5件が知られている(義弘―満弘、盛見―弘茂、持世―持盛、教弘―教幸、義興―高弘)。このため、教弘の子[[大内政弘|政弘]]は父祖の年忌法要や系譜の整備を行うとともに、これまで漠然とした形でしか主張されていなかった「'''[[百済]]の子孫'''」という主張を一歩進めて「'''琳聖太子の子孫'''」であるという先祖説話を強調するようになる。その背景には朝鮮との外交関係上の便宜という意味もあったが、一族・家臣に対する当主の権威づけを図ったものであった(実際に朝鮮に対する大内氏関係の「[[偽使]]」とされるものには教弘・政弘父子と家督を争った大内教幸(道頓)が朝鮮へ派遣したとみられるものも含まれており、[[応仁の乱]]の一時期に教幸が[[室町幕府]]から大内氏家督を認められていた経緯からすると、「正使」と解することもできるものも含まれていた)。また、これと同時に[[朝廷]]においても歴代当主への贈位の働きかけなどを行っている{{Sfn|須田牧子|2011|loc=§「大内氏の先祖観の形成とその意義」}}。
 
=== 応仁の乱から戦国時代 ===