「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-B22081, Russland, Kampf um Stalingrad, Luftangriff.jpg|thumb|ドイツ軍機の爆撃に曝される市街地]]
まず、ヴィータースハイム大将指揮の第14装甲軍団は、早朝にドン川から出撃した[[ハンス=ヴァレンティーン・フーベ|ハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将]]の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm[[高射砲]]を使ったトラクター工場の女性労働者たち([[コムソモール]]の少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。しかし、市街地への南下は阻止される。このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。8月28日になってスターリンは非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。しかし、爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は遮蔽物を形成しの如く、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。
 
スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード方面軍が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。ただし、彼は5月のバルベンコボ攻勢の失敗を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した[[北西戦線 (ソ連軍)|北西方面軍]]へ異動となり、[[ワシーリー・ゴルドフ|ワシーリー・ゴルドフ中将]]が交代した。しかし、ゴルドフはドン川湾曲部の防衛戦で成果が上げられなかったために更迭され、8月1日に[[アンドレイ・エリョーメンコ]]大将が方面軍司令官となった。エリョーメンコは、2月に行われた[[デミャンスク包囲戦]]の際、第4打撃軍を指揮して[[トロペツ]]を攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。エリョーメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。