「ジョルジュ・シムノン」の版間の差分

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最初にシムノン名義で発表された作品名を明記。
『ドナデュの遺言(遺書)』の執筆時期は1936/7-8であるため、戦時中とはいえないので誤認部分を修正。
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シムノンは、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]中は[[ヴァンデ]]県に住んでいた。戦争中の彼の行動はかなりの議論を呼ぶこととなった。学者の中には、シムノンがこれまでずっとドイツと通じていたのだという見方をするものが出てきており、その一方でこの見方を否定するものがいた。シムノンのことを、政治には関心の無い男で、本質的に[[日和見主義者]]だが、決して[[ドイツ]]の協力者などではない、と解釈していたのである。しかし、シムノンが現地の農場主達からドイツの協力者だと告発され、その一方で、[[ゲシュタポ]]からは彼が[[ユダヤ人]]ではないかと疑われて-これは「シムノン(Simenon)」という名前と「シモン(Simon)」という名前とを混同してのことだったのだが-状況はさらに混乱したものとなった。ともあれ、戦争末期にはシムノンは当局の監視下に置かれていた。というのも、ドイツの占領中に、彼は自分の著作の映画化の権利をドイツの映画スタジオと交渉して取り決めていたからである。[[1950年]]には、5年間、新作の出版を一切禁止される処分を受ける。しかし、この処分は公に告知されていなかったため、ほとんど実効のないものであった。
 
戦争中、シムノンは重要な作品をいくつも生み出した。その中には、「ドナデュの遺言(Le Testament Donadieu)」、「万聖節の旅人(Le Voyageur de la Toussaint)」「マエの輪(Le Cercle des Mahé)」などである。彼は重要な文通も行っている。特に[[アンドレ・ジイド]]との文通が有名である。
 
1940年代初めには、シムノンは健康上の不安を抱えていたが、ある時、その地の医者が彼の心臓が重篤な状態にある(シムノンの父親のことを思い出させるが)と誤診したのである。余命数ヶ月という診断であった。また、ティギーがブールのことでシムノンにとうとう不意打ちをくらわせたのも同じ頃であった。シムノンとティギーは1949年までは夫婦でいたのだが、今では結婚といっても形だけのものになっていた。ティギーが最初に抗議したのにもかかわらず、ブールは二人とともにとどまっていたのだった。