「東急バス目黒営業所」の版間の差分

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その後、目黒自動車運輸は[[1929年]](昭和4年)[[玉川電気鉄道]]の傍系会社となった。これは[[1927年]](昭和2年)に新たな電鉄会社・目黒玉川電気鉄道が設立され、現在の目黒通りに沿って東京府荏原郡大崎町と玉川村間に免許されたことに端を発する。競合会社の出現に対し玉川電気鉄道は早速同社の買収に動き、買収後新線建設に取りかかったものの、費用対効果の面から鉄道よりは乗合自動車の方が効率が良いとの結論に達し、鉄道建設を凍結した。一方の目黒自動車運輸は増資を決議したものの、なかなか引き受け手がなかった。こうして、目黒玉川電気鉄道が目黒自動車運輸の増資分を引き受けることになり、目黒自動車運輸が玉電系になったものである。実際の経営は引き続き志保澤が行っていた。<ref>なお、志保澤忠三郎は玉川電気鉄道に合併される日東乗合自動車([[東急バス淡島営業所]]の母体)も経営していた。</ref><br>
[[1935年]](昭和10年)、目黒玉川電気鉄道は未成線のまま解散し、目黒自動車運輸は玉電直系になる。翌[[1936年]](昭和11年)5月30日、目黒自動車運輸は芝浦乗合自動車の経営権を獲得するが、同年10月13日玉川電気鉄道は[[東京横浜電鉄]]に買収される。こうして、翌[[1937年]](昭和12年)12月1日に目黒自動車運輸は芝浦乗合自動車とともに東京横浜電鉄の姉妹会社である[[目黒蒲田電鉄]]に合併した。{{see also|東急バス#池上電気鉄道および周辺事業者の合併・買収|都営バス品川営業所#戦前・民営乱立時代}}
 
この際、権之助坂にあった本社は目黒蒲田電鉄の下目黒営業所として引き継がれた。目黒蒲田電鉄は、もともと目黒区では南部の[[洗足]]、[[大岡山]]、[[自由が丘|自由ヶ丘]]などにおいて運行していたが、この合併によって概ね[[祐天寺 (目黒区)|祐天寺]]以南の山手通り上を除く範囲が同社のエリアとなった。さらに、[[1939年]]に東京横浜電鉄を合併し、区のほぼ全域に東横(目蒲が社名を変更)のバスが走るようになった。