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* 1897年(明治30年)、和洋折衷料理という言葉が流行。東京の洋食店が1500店を数えた。
* 1917年([[大正]]6年)、『コロッケー([[コロッケ]]の唄)』が流行。歌詞は「ワイフを貰ってうれしかったが、いつも出てくるおかずはコロッケー、年がら年中コロッケー、アハハッハ、是りゃ可笑しい」というもの。新妻は、女学校で学んだ当時のハイカラな洋食であるコロッケを毎日張り切って作っていたのだが、亭主はうんざりしてしまったという内容である<ref>小菅桂子『にっぽん洋食物語大全』p.175.</ref>。
* 1924年(大正13年)、東京神田に和・洋・中華のすべてを扱う大衆食堂「[[聚楽|須田町食堂]]」が開店し、廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せるなどして人気となった<ref group="注">当時の大卒初任給70円、日雇労働者日当1円63銭。</ref>。このころ、[[お好み焼き]]のルーツのひとつである「[[一銭洋食]]」が西日本の[[駄菓子屋]]で人気となる。これは小麦粉を水で溶いたものを鉄板に広げ、刻みネギなどを乗せて焼き[[ウスターソース]]をかけて食べる、同時期の東京で[[どんどん焼き]]と呼ばれたものとほぼ同一の食べ物であります
* 1950年([[昭和]]25年)、銀座に「銀座キャンドル」創業。初代店主は籠にフライドチキンを盛った「[[チキンバスケット]]」や「アップルパイアラモード」など、当時斬新なメニューを提供し、赤×白のギンガムチェックのテーブルクロスを用い、アメリカ料理と洋食をミックスした。
* 1956年(昭和31年)、栄養改善指導のため、数台の[[キッチンカー]]が日本中を走り、洋食(および[[中華料理]])の調理法を教えて回った。スケジュールは新聞で告知され、主婦たちのあいだで大人気となった。献立の食材は各地域ですぐに売り切れるほどだった(めざとい商店はあらかじめ食材をたくさん仕入れたという)。これは[[アメリカ合衆国農務省]]が資金援助を行ったもので、その条件は「献立にかならず小麦粉を使った料理を入れること」だった。「フライパン運動」とも呼ばれ4年余り続き、その後も各自治体が数年にわたって引き継いだ。日本食生活協会が設立されたのもこの頃である。洋食は「近代的で望ましい食」とされ、このころ日本人の食生活が大きく転回した。