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== 生涯 ==
[[File:Omannokata's Birthplace.jpg|thumb| 於萬之方誕生地(愛知県知立市総持寺)]]
天文17年(1548年)、[[三河国]][[知立神社|知鯉鮒明神]]の社人・[[永見吉英|永見貞英]](志摩守)の娘として誕生する。名は'''万'''、'''於古茶'''、松、菊子、於故満と伝わる{{Sfn|小楠|2006|p=18-19}}。随庵見聞録に収録されている[[本多重次]]書状写に「おこちゃ」と見えるので、当時本多重次には「おこちゃ」と呼ばれていたとされる{{Sfn|小楠|2006|p=19}}。また、『知立市史』では万の母を[[水野忠政]]の娘で、[[於大の方]]の外姪とする{{Sfn|小楠|2006|p=20}}。
 
はじめ徳川家康の正室・[[築山殿]]の[[奥女中]]で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされるが、家康が永見氏を臣従させたときに長勝院を仕えさせることを約束させ、元亀三年に[[浜松城]]に仕え、於義伊を産んだともされる{{Sfn|小楠|2006|p=31,35}}。この時、双子であったといわれ、俗に[[永見貞愛]]がもう一人にあたるという。知立神社には、長勝院が貞愛の容体を心配して送った手紙が残されている{{sfn|小楠|2006|p=23}}。
 
家康の正室・[[築山殿]]は長勝院が家康の子供を妊娠することについて、承認しなかったため長勝院は浜松城内から退去させられたとされる。それは正妻としての権限であった{{Sfn|黒田|2022|p=144}}。正妻は、別妻や妾として承知するどうかの権限を持っていたと考えられる{{Sfn|黒田|2022|p=144}}。築山殿は長勝院を家康の妾とすることを承知しておらず、にもかかわらず妊娠したために、女房衆から追放したのである。それが江戸時代になると、妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている{{Sfn|黒田|2022|p=144}}。秀康を妊娠した長勝院は重臣の[[本多重次]]の差配により[[雄踏町|宇布見村]]の[[中村家住宅 (静岡県)|中村家]]で出産にいたっている。城内から追放されたということは、生まれてくる子供を家康の子供として承認しないことを意味していた{{Sfn|黒田|2022|p=144}}。