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;赤シャツ
:[[教頭]]。坊っちゃんの学校で唯一の[[東京帝国大学|帝大]]卒の[[学士|文学士]]。
:表向きは物腰柔らかく穏やかな口調だが陰湿な性格で、坊っちゃんと山嵐から毛嫌いされる。「赤はからだに薬になる」という理由で、通年[[フランネル]]の赤いシャツを着用する<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 11頁。</ref>(第二章)。[[琥珀]]製の[[パイプ (たばこ)|パイプ]]を絹の[[ハンカチ]]で磨く。[[奏任官]][[待遇官吏|待遇]](第四章)。金側の懐中時計(=[[金時計]])を用いる。マドンナを手なずけて婚約者のうらなりから横取りする(第七章)。独身、弟と一戸建て(家賃九円五十銭)に住む(第八章)。坊っちゃんが宿直した際の騒動後に[[飲食店]]の立ち入りを禁止された坊っちゃんに注意を加えたにもかかわらず、[[芸者]]と[[旅館]]で密会していたため、帰り道で野だいこと共に山嵐と坊っちゃんに懲らしめられる(第十一章)。
:漱石の愛媛県尋常中学校教師赴任時代の教頭だった[[横地石太郎]]がモデルとする説もあるが<ref name="asahi"/>、横地本人はこれを否定し<ref name=kanazawa>[https://www.kanazawa-museum.jp/ijin/project/past_pro/past-160910.html 企画展「『坊つちやん』に登場する赤シャツのモデル? 横地石太郎」] - 金沢ふるさと偉人館、2019年12月2日閲覧。</ref>、困惑・閉口した反応を示している<ref name=sarai>[https://serai.jp/hobby/141876 漱石と明治人のことば54「(漱石は)誰とでも交際する人ではないが友情に厚い人だった] - [[サライ (雑誌)|サライ.jp]]、2019年12月2日閲覧。</ref>。実際の横地と漱石は、愛媛時代には互いの家を訪問するなど親しく付き合い<ref name=sarai/>、漱石が熊本の[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]に異動した後も交際した<ref name=kanazawa/>。また、当時の横地の渾名は「天神さん」であった<ref name=sarai/>。そもそも東京大学理学部を卒業した横地の学位は理学士で、文学士という設定の赤シャツとは異なり、漱石自身も講演録『私の個人主義』において「当時其中学に文学士と云ったら私一人なのだから、赤シャツは私の事にならなければならん」と断っている<ref name=sarai/>。これは赤シャツが漱石自身というよりも、若い教師たちから文学士である自分が煙たがられていないかといった不安の反映であると同時に、東京帝大出を鼻にかけて権力を振りまわすような傾向が教育界にあってはならないことを同窓に警告しているとする説がある<ref>『坊っちゃん』 [[偕成社文庫]] 解説 [[村松定孝]] 1988年</ref>。
;赤シャツの[[弟]]
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:マドンナの婚約者であったが、1年前のうらなりの父の急死で結婚が延びていた間に赤シャツがマドンナと交際をはじめてしまい、赤シャツの陰謀(表向きは家庭の事情)で再三拒否したにもかかわらず言い含められて[[延岡市|延岡]]に転属になる(第九章)。山嵐と並んで坊っちゃんの理解者の一人であり、いか銀を退去した坊っちゃんに萩野夫婦の下宿人になることを勧める(第七章)。
:一説には漱石の愛媛県尋常中学校教師赴任時代の英語教師だった梅木忠朴がモデルとされている<ref>安倍能成『我が生ひ立ち』</ref>。
;[[マドンナ]]
:うらなりの婚約者だった令嬢。名字は遠山。マドンナは教師たちの間でのあだ名。
:赤シャツと交際している。坊っちゃん曰く、「色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人」、「[[水晶]]の珠を[[香水]]で暖ためて、掌へ握ってみたような心持ち」の美人。作中のキーパーソンだが、発言はなく出番もわずかな[[マクガフィン]]的な存在。坊っちゃんとの関係は、作中では坊っちゃんが一方的に注目しているだけで、彼女自身は坊っちゃんのことを全く知らない。うらなりの人柄を買っている坊ちゃんはマドンナを「こんな結構な男を捨てて赤シャツになびくなんて、よっぼど気の知れないおきゃん」と評した。