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[[ファイル:President Truman announces Japan's surrender.jpg|thumb|250px|1945年[[8月14日]]、[[ホワイトハウス]]にて日本のポツダム宣言受諾を発表する[[ハリー・S・トルーマン]]米国大統領]]
=== の!
'''ポツダム宣言'''(ポツダムせんげん、{{lang-en-short|Potsdam Declaration}})は、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月26日]]に[[イギリス帝国|イギリス]]、 [[アメリカ合衆国]]、[[中華民国の歴史|中華民国]]の政府首脳の連名において[[日本]]に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、'''日本への降伏要求の最終宣言'''(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、{{lang|en|Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender}})。宣言を発した各国の名をとって「'''米英支三国宣言'''(べいえいしさんごくせんげん)」<ref>下記邦訳、および下記外部リンク「ポツダム宣言 - 国立国会図書館」参照</ref>ともいう<ref group="注釈">大東亜戦争終結ノ詔書([[玉音放送]]の原文)では「米英中蘇」となっている。複数国による宣言や協定や条約の場合、その宣言や協定や条約に参加したからといって宣言中で定められる権利等の全てが宣言、協定、条約国全てに等しく与えられるとは限らない。権利や義務は宣言中で具体的に明示された事項について具体的に明示された参加者にのみ与えられたり負わされる。宣言参加者には宣言内で定められる事項について遵守義務が発生する</ref>。[[ソビエト連邦]]は、後から加わり追認した。
降伏勧告路線の本格化 ===
 
日本政府は[[1945年]][[8月14日]]にこの宣言を受諾し、[[9月2日]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への[[日本の降伏文書|降伏文書]]調印・即時発効に至って[[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])は終結した([[日本の降伏]])。
 
== 概要 ==
[[ナチス・ドイツ]]降伏後の[[1945年]](昭和20年)[[7月17日]]から[[8月2日]]にかけ、[[ベルリン]]郊外[[ポツダム]]において、英国、米国、ソ連の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]主要3カ国の首脳([[イギリスの首相]][[ウィンストン・チャーチル]]および[[クレメント・アトリー]]<ref group="注釈">[[1945年イギリス総選挙|総選挙]]での[[政権交代]]に伴う首相交代による。[[保守党 (イギリス)|保守党]]党首チャーチルは[[7月26日]]まで。[[労働党 (イギリス)|労働党]]党首アトリーは[[7月27日|27日]]以降(ただ、前半も次席として参加)。</ref>、[[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]、[[ソビエト連邦共産党]][[書記長]][[ヨシフ・スターリン]])が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された([[ポツダム会談]])。
 
ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の[[蔣介石]]国民政府主席およびアメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していない。
 
[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]、日本政府は本宣言の受諾を駐[[スイス]]および[[スウェーデン]]の日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌[[8月15日]]に国民に[[ラジオ]]放送を通じて発表された([[玉音放送]])。[[9月2日]]、東京湾内に停泊する戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]甲板で日本政府全権の[[重光葵]]と[[大本営]](日本軍)全権の[[梅津美治郎]]および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた[[日本の降伏文書|降伏文書]](休戦協定)に調印した。これにより、宣言は初めて外交文書として固定された。
 
== 内容 ==
===英文===
原文である。
 
ウィキソース「[[:s:en:Potsdam Declaration]]」または下部[[#外部リンク]]参照
 
===日本語文語訳===
ウィキソース「[[:s:ポツダム宣言]]」または下部[[#外部リンク]]参照
 
=== 日本語口語訳 ===
{{Notice|この口語訳は、Wikipedia編集者によりなされたものです。利用の際はご注意ください。}}
 
{{Squote|
'''ポツダム宣言'''
 
'''[[アメリカ合衆国|合衆国]]、[[中華民国 (1912年-1949年)|中国]]及び[[イギリス|連合王国]]首脳の承認による[[日本の降伏]]のための定義及び規約'''
 
'''[[1945年]][[7月26日]]、[[ポツダム]]にて'''
 
{{0}}1. 我々[[ハリー・S・トルーマン|合衆国大統領]]、[[蔣介石|中華民国政府主席]]、及び[[ウィンストン・チャーチル|英国総理大臣]]は、我々の数億の国民を代表し協議の上、[[大日本帝国|日本国]]に対し[[太平洋戦争|戦争]]を終結する機会を与えることで一致した。
 
{{0}}2. 3ヶ国の[[軍隊]]は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この[[軍事力]]は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の決意により支持され且つ鼓舞される。
 
{{0}}3. 世界の[[自由主義|自由]]な人民に支持されたこの軍事力行使は、[[ナチス・ドイツ]]に対して適用された場合に[[ドイツ国|ドイツ]]と[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]に[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)#ドイツの降伏|完全に破壊をもたらした]]ことが示すように、日本と[[日本軍]]が完全に壊滅することを意味する。
 
{{0}}4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた[[軍国主義]]者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選択すべき時が到来したのだ。
 
{{0}}5. 我々の条件は以下の条文で示す通りであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅延は認めない。
 
{{0}}6. [[日本国民]]を欺いて、[[世界征服]]に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、[[平和]]と[[安全]]と[[正義]]の新秩序も現れ得ないからである。
 
{{0}}7. 第6条の新秩序が確立され、日本国の戦争遂行能力が破砕されたことの確証があるに至るまで、[[連合国軍占領下の日本|連合国は日本国領域内の諸地点を占領]]するであろう。
 
{{0}}8. [[カイロ宣言]]の条項は履行されなければならず、又日本国の主権は[[本州]]、[[北海道]]、[[九州]]及び[[四国]]並びに我々の決定する諸小島に限定されることになる。
 
{{0}}9. [[日本軍]]は[[武装解除]]された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
 
10. 我々の意志は[[日本人]]を民族として[[奴隷]]化し、また[[ジェノサイド|日本国民を滅亡]]させようとするものではないが、日本における[[捕虜]]虐待を含む一切の[[日本の戦争犯罪|戦争犯罪人]]は[[極東国際軍事裁判|処罰される]]であろう。日本政府は日本国国民における[[大正デモクラシー|民主主義的傾向]]の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるし、[[言論の自由|言論]]、[[信教の自由|宗教]]及び[[思想の自由]]並びに基本的[[人権]]の尊重は確立されるであろう。
 
11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、[[戦争]]と[[再軍備]]に関わらないものが保有出来る。また、将来的には国際[[貿易]]に復帰が許可される。
 
12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある[[政府]]の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に、[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]は撤退するであろう。
 
13. 我々は[[日本国政府|日本政府]]が全[[日本軍]]の即時[[無条件降伏]]を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。右以外の日本国の選択肢は、迅速且つ完全なる[[壊滅]]があるのみである。
}}
 
== 宣言の策定と発表 ==
{{単一の出典|section=1|date=2014-08}}
=== 背景 ===
1943年1月の[[カサブランカ会談]]において、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[枢軸国]]の[[ナチス・ドイツ]]、[[イタリア王国]]、[[大日本帝国]]に対し、[[無条件降伏]]を要求する姿勢を明確化した。この方針はアメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の意向が強く働いたものであり{{sfn|山下祐志|1995|pp=11}}、11月17日の[[カイロ宣言]]においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]やイギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った{{sfn|山下祐志|1995|pp=11}}。政府内のグループには「[[天皇制]]維持などの条件を提示したほうが、早期に[[太平洋戦争|対日戦]]が終結する」という提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]の[[コーデル・ハル]]も反対したが、ルーズベルトは死去するまでこの方針に固執した<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.87-88, pp.99-100</ref>。
 
この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。[[1943年]]9月にイタリアが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、[[休戦協定]]によって戦闘が停止したのち、立場の強い側が弱い側に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。敗北した側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.101-104</ref>。
 
1945年2月の[[ヤルタ会談]]においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、[[樺太|南樺太]]、[[千島列島]]、[[満州]]における権益などの代償を提示してソ連に対して[[ソ連対日参戦|対日戦への参加]]を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月であった[[ハリー・S・トルーマン]]が急遽大統領となった。トルーマンは[[外交]]分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、[[アメリカ合衆国の外交政策|アメリカの外交政策]]は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった{{sfn|山下祐志|1995|pp=13}}。トルーマン大統領は就任後、4月16日の[[アメリカ合衆国議会|アメリカ議会]]上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連の[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった<ref>有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、p.104</ref>。
 
5月7日に[[ナチス・ドイツ]]が無条件降伏して崩壊した後、できる限り早期に対日戦争を終結させる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、[[戦争情報局]]が用意し、大統領[[軍事顧問]][[ウィリアム・リーヒ]]が賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、[[日本]]に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、[[アメリカ海軍情報局]]から戦争情報局に出向していた[[エリス・M・ザカライアス]]海軍大佐の「[[ザカライアス放送]]」が8月4日までに14回行われている{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}<ref>有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.104-105</ref>。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.105-106</ref>。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}。
 
=== 降伏勧告路線の本格化 ===
[[ファイル:Henry stimson.jpg|thumb|150px|ヘンリー・スティムソン(1945年)]]
[[ファイル:Dignitaries review the 2nd Armored Division during the Potsdam Conference.jpg|thumb|ポツダム会談の最中に、占領アメリカ軍を訪問するマックロイ。左側のヘルメットをかぶった人物は[[ジョージ・パットン]]]]