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千代大海の大関昇進により、若乃花と[[貴乃花光司|貴乃花]]に次ぐ新しい時代のヒーローとして期待された。しかし新大関の[[1999年]](平成11年)3月場所は、初日から3連敗を喫するなど不調で星が伸びず、さらに10日目の武蔵丸との取り組み中に、武蔵丸の頭突きが鼻に当たって鼻骨を折ってしまい、鼻血を流しながらしばらく立ち上がれず、途中休場する羽目になってしまった。翌5月場所は[[公傷制度|公傷]]が適用されて全休、いきなり初の大関[[角番]]となった1999年7月場所は、10勝5敗と勝ち越して角番を脱した。因みに新大関場所で休場した力士が休場明けに2桁白星を記録してカド番を脱出するのは、「2場所連続負け越し」での関脇降下に改められた1969年7月場所以降では史上初<ref name="nikaten">『相撲』2018年10月号99頁から107頁</ref>。
 
その後も怪我や体調不良などでふるわない場所もあったものの、概ね10勝から11勝を挙げ、安定した成績を残していた。2000年7月場所では、曙と武蔵丸の両横綱に勝利し11勝。しかし2001年1月場所は4日目で当時の5大関の黒星を合わせて早くも10敗となるなど大関陣全体が不甲斐ない状況にあったため、当時の審判副部長であった九重が激怒<ref name="gekioko">2001年1月11日付 日刊スポーツ紙面</ref>。「うちの休場しただらしない大関(千代大海)を筆頭に全然、けいこしない。だから肝心なところで勝てないんだ。今、勢いのあるのは巡業でもガンガンやってるやつら。けいこが足りないんだ!」と非難した<ref name="gekioko"/>。その後2001年5月場所では12勝、2001年7月場所は13日目の魁皇戦で肩を怪我したが千秋楽まで取り切り11勝。2場所連続休場明けだった[[2002年]]1月場所は、初日から新大関の[[栃東大裕|栃東]]と共に9連勝。10日目に[[海鵬涼至|海鵬]]に敗れて1敗となったが、その後栃東が終盤で2敗したため、千代大海が13勝1敗と単独首位で千秋楽を迎えた。千秋楽結び前の一番で栃東に勝てば千代大海の2度目の幕内優勝だったが、[[押し出し (相撲)|押し出し]]に敗れて、13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれ込む。だがその決定戦では栃東の立合いの変化で[[突き落とし]]に又も敗北、逆転で惜しくも優勝を逃してしまう<ref group="注釈">この時、観戦席から蜜柑が飛んできて、吊り屋根に当たり、その時に出来たシミが残っている(残っていた)ことを[[2011年]]に両国国技館で行われた[[TRIBUTE TO JAPAN - THE BENEFIT BLACK MASS 2 DAYS, D.C.13 -]]で[[デーモン閣下]]がMC中に懐述している(その当日、デーモンは国技館で観戦していたこともカミングアウトしている)。</ref>。取組後、九重部屋の千秋楽慰労パーティーの席で千代大海は、師匠の九重親方と共に「無念です…」と大粒の悔し涙を流していた。
 
初の綱取りだった翌3月場所は、中日迄に4敗を喫して絶望的となり、11日目で7勝4敗としながらも12日目から4連敗してしまい、結局7勝8敗と負け越しに終わる。角番で迎えた5月場所は初日から9連勝し、後半に失速したものの11勝4敗の成績を挙げた。7月場所は10日目に[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]]に敗れたが、14勝1敗の好成績を挙げ、21場所ぶり2回目の幕内優勝を果たした。だが2回目の綱取りだった翌9月場所では、12日目まで2敗と優勝争いに加わったが終盤3連敗で10勝5敗、又しても綱取りはならなかった<ref name="100retsu"/>。次の11月場所は9日目から途中休場したが、この年は年間最多勝を挙げた朝青龍に次ぐ61勝を挙げた。