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6歳で将棋を覚える<ref name=":0">{{Cite web|title=卒業生紹介 {{!}} 國學院高等学校|url=https://www.kokugakuin.ed.jp/education/introduce-graduates/|website=www.kokugakuin.ed.jp|accessdate=2021-03-09}}</ref>。この時期に憧れていた棋士は[[米長邦雄]]。八幡市に隣接する[[大阪府]][[枚方市]]にあった田中魁秀の将棋教室に通うようになった頃、『米長の将棋』という本で勉強した。また、最初に読んだ棋書は[[有吉道夫]]の自戦記『玉頭位取り戦法』であり、真っ黒でボロボロになるまで繰り返し読んだという<ref>佐藤康光『佐藤康光の寄せの急所 囲いの急所』日本放送出版協会、1995年11月、ISBN 4-14-016075-6、p108</ref>。
 
[[1981年]]の春、[[小学生将棋名人戦]]に6年生として出場し、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]で[[全国放送]]される準決勝に進出して3位となる<ref group="注">その前の3回戦では、[[村山聖]]と対戦して勝っている。ちなみに、このときの準優勝者は[[中井広恵]]。また、[[畠山成幸]](前年準優勝)は佐藤と同じく3位であった。5年生の[[羽生善治]](翌年に優勝)も出場していた。</ref>。
 
[[1982年]][[12月]](中学1年の冬)、6級で関西[[新進棋士奨励会|奨励会]]に入会。その半年後、[[谷川浩司]]が史上最年少の21歳で[[名人戦 (将棋)|名人]]となる。関西将棋会館の控え室で[[詰将棋]]を棋士・奨励会員数名が解けずに悩んでいたところに谷川が現れて数十秒で解き、皆を唖然とさせる。この光景を目撃した佐藤は子供心に「A級の恐ろしさ」を知ったという<ref>「[[将棋世界]]」1990年2月号</ref>。
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奨励会入会後、僅か1年弱で2級に昇級。その直後(中2の終わり)父親の転勤のため八幡から東京都区内に転居したことで関東奨励会に移籍する<ref>{{Cite web|title=【インタビュー】【佐藤康光の感謝】将棋を愛するすべての人に届けたい「ありがとう」のメッセージ|url=https://news.livedoor.com/article/detail/16242620/|website=ライブドアニュース|accessdate=2020-09-07|language=ja}}</ref>。このとき「名人候補を東京に取られた」と関西の棋士たちが嘆いたという<ref>別冊宝島編集部 編 『戦う将棋指し』 宝島社、1999年、166頁。</ref>。プロの対局の記録係を務めるため中学校を頻繁に休んでいたことから、「学校やすみつ君」とからかわれていた<ref>[[先崎学]]著「世界は右に回る」</ref>。佐藤本人は「中学校でどうだったかは記憶にないが、高校では間違いなく言われていた」と述懐している<ref>{{Cite web|title=【読売新聞オンラインコラボ企画】佐藤康光九段ってこんなお方【会長降臨】|url=https://www.youtube.com/watch?v=UkO4nG2a2B4|accessdate=2021-06-21}}</ref>。佐藤はその後、[[國學院高等学校|國學院高校]]に進学し、卒業をしている<ref name=":0" />。
 
奨励会二段の頃、[[島朗]]主宰の、いわゆる「島研」に、[[森内俊之]]とともに参加。二人が対局し、残った一人が記録係を務めるという、一風変わった研究会であった。そして、17歳の頃、二段の途中から8連勝して三段へ昇段。さらに続けて13勝1敗<ref group="注">佐藤が奨励会に在籍していた当時は、三段リーグの制度がなかった。</ref>で四段(プロ)に昇段(1987年3月25日)。合わせて21勝1敗というラストスパートでのプロ入りを果たす。
 
=== プロ入り後 ===
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同年(1990年)、第9回[[早指し新鋭戦]]で、決勝で森内俊之を破り棋戦初優勝。翌年(1991年)も決勝で[[森下卓]]を破って2連覇。1990年度は、[[将棋大賞]]の新人賞を受賞している。
 
1993年、六段のとき第6期[[竜王戦]]で挑戦者となる(これにより[[将棋の段級|規定]]で七段へ昇段)。当時の竜王は五冠王の羽生善治であったが七番勝負を4-2で制して'''羽生から竜王位を奪取'''し、初のタイトル獲得を果たす。しかし、翌年(1994年)の第7期竜王戦では、逆に羽生の挑戦を受け2-4で失冠し、羽生に史上初の六冠王を許してしまう。以後1年間、「前竜王」の称号を名乗った<ref group="注">2017年現在、佐藤の後に「前竜王」の称号を名乗る権利を行使した棋士はいない。</ref>。その翌年(1995年)の第8期竜王戦は、また逆に佐藤が羽生に挑戦し3年連続の同一カードとなったが、奪取はならなかった<ref group="注">羽生は、この竜王戦の直後の[[王将戦]]も制し、史上初の七冠独占を達成することとなる。</ref>。
 
1996年にA級八段となる。そして、A級参加2期目(1997年度)のA級[[順位戦]]において6勝3敗同士でのプレーオフで羽生善治を下し、第56期(1998年)[[名人戦 (将棋)|名人戦]]で谷川浩司名人への挑戦権を得る。そして、七番勝負を4-3で制して初の名人位獲得。また、名人1期獲得の[[将棋の段級|規定]]により九段に上り詰めた。
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2007年、第78期棋聖戦で[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]竜王の挑戦を3-1で退けて防衛し、6連覇。一方、同年の竜王戦では、逆に渡辺に2年連続で挑戦するも2-4で再び奪取に失敗し、三冠制覇のチャンスを逃す。互いに自分のタイトルを防衛・連覇し合う結果となった。
 
2007年度、初の生放送となるNHK杯戦決勝(2008年3月16日)で鈴木大介を破り優勝。47、48期(1998、99年度)の羽生善治以来、同大会9年ぶり3人目の連覇を達成した。また、第33期棋王戦では羽生を3勝2敗で下して防衛に成功、1勝2敗の角番からの粘りで二冠を死守した。しかしながら、A級順位戦では苦戦する<ref group="注">開幕から谷川浩司とともに4連敗し、「このまま2人そろって降級か」ということで一般紙でも話題として取り上げられた。その後、谷川は連敗を4で止め最終局を前に残留を確定させたが、佐藤は6連敗を喫した。</ref>。残留争いのライバル2名([[行方尚史]]・久保利明)との直接対決が残っていたため、残り3局を3連勝すれば残留できるという「自力残留」の目が残されていた。まず、行方を破り、次に久保を破る。そして最終9回戦<ref group="注">「[[将棋界#「将棋界の一番長い日」|将棋界のいちばん長い日]]」と呼ばれる</ref>では、挑戦者争いにも残留争いにも絡んでいない[[木村一基]]が対戦相手であった。木村は羽織袴を着て闘志(「[[米長邦雄#米長哲学|米長哲学]]」)を露わにして佐藤の前に登場するも、佐藤はこの一局に勝ち、A級の座を死守した。
 
2008年6月からの第79期棋聖戦でも羽生を挑戦者として迎える。初戦から2連勝して早々に防衛に王手をかけたが、そこから3連敗して棋聖位を奪取され、一冠(棋王)に後退。[[大山康晴]]に並ぶ棋聖戦7連覇の達成はならなかった。
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2009年(2008年度)の第34期棋王戦では、久保利明に2連敗後の2連勝でフルセットまで持ち込んだが、最終局に敗れ3連覇を逃し、7年ぶりに無冠となる(久保にとっては初タイトル)。
 
第68期(2009年度)順位戦A級の8回戦、対・[[藤井猛]]戦([[2010年]][[2月3日]])で敗れ、B級1組への陥落が決定。A級連続在籍(名人在位2期を含む)は14でストップし、順位戦・竜王戦を通じて自身初の降級を喫する。翌朝、久保棋王への挑戦者(リターンマッチ)として、第1局のため9時前に[[東京国際空港|羽田空港]]に集合し、[[上海]]へ移動。対局場の検分と前夜祭を済ませ、2月5日に対局という過酷なスケジュールであったが、筋違い角の乱戦を制して先勝する。この五番勝負は前期と同じくフルセットとなったが、第5局(3月30日)で190手の熱戦の末に敗れ、昨年奪われた棋王位をすぐに取り返すことはできなかった。この一局は、翌日に行われた第37回将棋大賞の選考で、名局賞に選ばれた<ref group="注">なお、棋王戦第2局と第3局の間の3月2日に行われたA級順位戦最終局(いわゆる‘将棋界のいちばん長い日’)は、勝っても負けても次期のB級1組での順位さえ変わらない全くの[[消化試合]]であったが、名人挑戦の可能性を残していた丸山忠久を負かしている。</ref><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2010/04/37.html 第37回将棋大賞決まる!|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。また2009年度最後の対局である棋王戦第5局で敗れたことにより、同年度はデビュー以来初の負け越し(24勝25敗)となった。
 
=== 2010年代 ===
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== 棋風 ==
若手時代は既存の[[定跡]]形を多く指していたが、2005年前後からは創造的で新基軸な序盤作戦を選ぶことが多くなっている<ref group="注">一般的にそうした将棋は型に嵌らない「[[力戦]]」と呼ばれることが多いが、本人によれば、それらの作戦はすべて論理的に考えた帰結であるので、力戦と呼ばれることには抵抗感があると言う(佐藤康光 『佐藤康光の力戦振り飛車』(毎日コミュニケーションズ、2010年)3頁)</ref>。
 
ゴキゲン中飛車を相手にしての序盤の新手である9手目▲9六歩は、多くの棋士達によって採用されている(''[[ゴキゲン中飛車]]'' を参照)<ref group="注">▲9六歩を初披露したのは2005年2月17日([[朝日オープン将棋選手権]]・対[[山崎隆之]]戦)である(結果的に負けたが内容は十分)。しかし、そのときは棋士達の間で見向きもされず、5か月後にタイトル戦で羽生を相手に指して勝ったときから流行り出した。佐藤は「真似されるのは素直にうれしい」と語っている(『[[将棋世界]]』2006年7月号)</ref>。
 
若手時代から「'''緻密流'''」と称される読みの深さで知られ、「1秒間に1億と3手読む」と形容されるほどである<ref group="注">室岡は当初「10億」と言った筈がいつの間にか「1億」になった、と将棋世界2009年9月号で述べている。もちろん佐藤自身も否定しているが、『日本将棋用語事典』p.173 -によれば、1000手を超えることはあるとのことである。</ref>。
 
非常に独特な駒組から腕力で相手をねじ伏せる剛腕ぶりから、インターネット上では「丸太」と表現されることもある<ref>{{Cite web|title=佐藤康光九段(50)攻め込んできた鬼軍曹・永瀬拓矢二冠(27)を丸太でぶちのめ返し竜王戦本戦進出決定|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20200626-00185149|author = 松本博文|website=Yahoo!ニュース|date=2020/6/26|accessdate=2021-08-22|language=ja}}</ref>。
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=== 対局に関するエピソード ===
* プロとして最初の公式戦(1987年5月26日・[[早指し将棋選手権]]予選)の対局相手であった[[木村嘉孝 (棋士)|木村嘉孝]]が、事情により欠場したため、プロ初白星が不戦勝という、棋界では非常に珍しい記録を残すことになった。
* 2000年の第58期名人戦においては、挑戦者であった丸山忠久の得意戦法(丸山が先手の場合は角換わり戦法、丸山が後手の場合は[[横歩取り8五飛|横歩取り8五飛車戦法]])を堂々と受けて名人位を防衛しようとした<ref group="注">前期の谷川との名人戦でも、そのような傾向が見られた。</ref>。しかし、結果的に3勝4敗で丸山に名人位を奪われた。
* 2002年の第51期[[王将戦]]では、おやつに大量の[[キウイフルーツ]]を食べつづけ、羽生善治から王将を奪取したことから、ネットで話題になった<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2011/07/12/%e4%bd%90%e8%97%a4%e5%ba%b7%e5%85%89%e4%b9%9d%e6%ae%b5%e3%81%a8%e3%82%ad%e3%82%a6%e3%82%a4%e3%82%92%e5%88%86%e6%9e%90%e3%81%99%e3%82%8b/ 佐藤康光九段とキウイを分析する] - 将棋ペンクラブログ・2011年7月12日</ref><ref name=huff170206 />。
* 渡辺明に挑戦した2006年の第19期竜王戦の第6局で、渡辺の初手▲7六歩に対して2手目△3二金と指し、居飛車党の渡辺を「挑発」<ref group="注">なお、佐藤本人は2手目△3二金について、将棋世界の「イメージと読みの将棋感」の中で「挑発ではなく、論理に基づく手」と語っている。実際、第19期竜王戦第7局では2手目△3二金のあと4手目△4一玉の新手を披露しており、これが矢倉戦法を指向する相手に効果的だったことから、渡辺竜王も「ただの挑発ではありませんでした」と評価している。</ref>した(3二の金は、相手が[[振り飛車]]の場合には適さない位置とされる)。結果は、挑発に乗って不慣れな振り飛車を採用した渡辺の負け。そして迎えた最終の第7局でも、振り駒で後手となった佐藤は再び2手目△3二金と指したが今度は[[矢倉囲い|矢倉戦]]になり、結果は渡辺が勝って防衛。そして渡辺に2年連続で挑戦した第20期竜王戦の第6局でも、佐藤は2手目△3二金を採用。プロ棋界では非常に珍しい相[[中飛車]]に進み、最終的に渡辺が勝利を収めた<ref group="注">この1局で、渡辺の竜王4連覇が決まった。</ref>。
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|▲佐藤康光九段 持駒:角歩三}}
|}
* [[久保利明]]に挑戦した第61期王将戦の第1局で、久保の[[ゴキゲン中飛車]]に超速戦法で応戦、乱戦に持ち込んだところに▲5七玉という空前絶後の妙手を指し、度肝を抜いた(対局は111手で佐藤の勝ち)<ref group="注">将棋世界2012年6月号「プレイバック2011」に於いても、本局を評した棋士の全てが佐藤の▲5七玉についての驚きを口にした。一方、やられた久保は同誌2012年8月号「イメージと読みの将棋観」に於いてこの局面が取り上げられた際に、「もう一度この局面が現れたら、(本局と同じく)後手を持ってみたい」と述べた。</ref>。本局を含めた意欲的な指し回しが評価され、佐藤は第18回升田幸三賞を受賞している<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2012/04/_2442.html 第39回将棋大賞決まる!|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。
* NHK杯戦で連覇を経験しているため、同棋戦で13連勝の記録を持つ。本人曰く[[羽生善治|羽生さん]]の連勝(編注:24連勝。後述書p.194参照)に比べたら問題にならないが、実は密かな自慢であるとのことである<ref>{{Citation | title = NHK杯伝説の名勝負 次の一手 | series = NHK将棋シリーズ | year = 2013 | editor = NHK出版 | publisher = NHK出版 | author = [[内藤國雄]]、[[加藤一二三]]、[[谷川浩司]]、[[羽生善治]]、[[森内俊之]]、'''佐藤康光'''、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]] (監修) p.196}}</ref>。
* 2008年度の第58回NHK杯3回戦・[[金井恒太]]との対局で、時間が迫り「▲5九飛車」と指す場面で飛車駒を落としてしまう。しかし指し手の位置である5九を指で示し「飛車」と発言したことから時間内に指したとされ事なきを得た(駒を落とした場合について連盟の対局規定第5条<ref>[https://www.shogi.or.jp/faq/taikyoku-kitei.html 対局規定(抄録)] - 日本将棋連盟</ref>に従った形)。
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* 若手時代に、そのルックスと名前に引っ掛けて[[先崎学]]から「もてみつ君」というあだ名を付けられる。それが由来で、ファンの間では「モテ」と呼ばれる<ref name=huff170206>[https://www.huffingtonpost.jp/2017/02/05/who-is-yasumitsu-satou_n_14630106.html 佐藤康光九段ってどんな人? 将棋連盟の新会長は「1秒間に1億と3手読む棋士」] - ハフィントンポスト・2017年2月6日</ref>。他に、父親が製薬会社勤務だったことから、[[米長邦雄]]にはその勤務先に引っ掛けて「[[グロンサン]]」と呼ばれていた<ref name=gendai170810>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/211211 <佐藤康光編>「無人島につれて行きたい」と言われた男] - 日刊ゲンダイ・2017年8月10日</ref>。
* [[将棋マガジン]](日本将棋連盟)のコーナーである「佐藤康光と森内俊之のなんでもアタック」の1996年2月号の企画で、'''[[目隠し将棋|目隠し]]五面指し'''(目隠しした佐藤が、目隠ししていない5人のアマチュアと同時に対局)に挑戦し、反則なしの五戦全勝で見事に成功した。
* 熱血漢でアツくなり易いという一面を持っており、対局で負けたときは涙を流して悔しがることもある<ref group="注">先崎学著 先崎学の「浮いたり沈んだり」の「敗戦の夜に…」にて対局に負けた後に「わんわん泣きます」と佐藤が語ったエピソードが紹介されている。</ref>。
* タイトル戦以外でも、ここ一番の大勝負(挑戦者決定戦やTV棋戦の決勝など)では[[和服]]で対局に臨む。
* 竜王奪取の前年(1992年)に[[ゴルフ]]にはまり、「趣味はゴルフ」と公言するまでになった<ref>[http://golfdigesttv.jp/myselection/100415_satouyasumitu/ My Selection プロ棋士 佐藤康光さん] - Golf Digest TV</ref>。
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===