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2021年にはガンダムを世界最大級のIPに成長させる「'''[[ガンダムプロジェクト]]'''」が発足<ref name="bandai.GP">[https://web.archive.org/web/20210814171836/https://bandainamco-am.co.jp/company/NEWS/others_facility/2021528_01.html バンダイナムコグループ 「ガンダムプロジェクト」発足のお知らせ~世界最大級のIPを目指して~] - バンダイナムコグループ</ref>。2025年度のIP売上高1500億円を目標に、海外市場の拡大/グローバル戦略が推進される。第3代チーフガンダムオフィサー(CGO)の藤原孝史は、今後ガンダムを「IP」から「'''SP'''」(ソーシャルプロパティ=社会的アイコン)に進化させる旨を述べた<ref name="bago">[【バGOI】インタビュー#5 『機動戦士ガンダム』のIPからSPへの進化について] - ガンチャン</ref>。
 
書籍『IPのつくりかたとひろげかた』に於いてガンダムは「'''世界観IP'''」とも表現され、「ストーリーIP」から脱却した物として扱われている<ref name="ip-Ishi">『IPのつくりかたとひろげかた』星海社、2020年10月23日、ISBN 978-4065212899、49-56頁。</ref>。著者はアムロ・レイやシャア・アズナブルが作品を背負っているのではなく、世界([[宇宙世紀]])のなかにアムロやシャアが存在すると表現した<ref name="{{R|ip-Ishi" />}}
 
== 企画の経緯 ==
本作の企画の根底には『[[宇宙戦艦ヤマト]]』のヒットがあった。[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]の[[矢立肇|山浦栄二]]は当時、『ヤマト』の制作会社である[[オフィス・アカデミー]]からデータを入手<ref>[https://web.archive.org/web/20030218174409/www.sunrise-inc.co.jp/30th/03.html アトムの遺伝子 ガンダムの夢] - サンライズ(2003年2月18日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、『ヤマト』の関連事業は一部の熱狂的なファンを相手にした商売であることがわかり、「ハイターゲットに絞って、30万から40万の熱狂的なファンをつかめば、それで十分に商売になる」という結論を得た<ref name="age">『[[映画秘宝]]』関係者の中にいたガンダム野郎編「第1章 ガンダム大地に立つ 『機動戦士ガンダム』胎動と本放送 サンライズ企画部長(当時) 山浦栄二INTERVIEW 『ガンダム』とニュータイプと戦争」『ガンダム・エイジ ガンプラ世代のためのガンダム読本』洋泉社、1999年4月9日、ISBN 4-89691-379-5、70頁。</ref>。そこで本作は『ヤマト』と同じく中学生以上を取り込むことになった<ref name="Gmono">{{Cite book|和書|year=2002|title=ガンダム者―ガンダムを創った男たち|publisher=講談社|isbn=4063301818}}</ref>。
 
作品構成も『ヤマト』が意識されたが、そのままでは活劇的な展開になりにくいこととキャラクターの年齢が高いことが問題になり、『[[十五少年漂流記]]』から着想を得て、[[宇宙船]]に乗り込んだ少年少女が宇宙戦争の中で協力しながら生き延び成長するというストーリーが構想された。この時点では、主人公たちは宇宙空母(のちの[[ホワイトベース]])に乗り、宇宙戦闘機で[[異星人]]と戦うという設定だった<ref name="{{R|Gmono"/>}}{{efn2|この構想は後に[[神田武幸]]の手で『[[銀河漂流バイファム]]』として形になった。『バイファム』の原案に富野由悠季の名前があるのはこのためである。}}。
 
ちょうどその頃、直前の2作品(『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』)の営業成績がよかったことで、サンライズもスポンサーも気が緩んでいた。それに乗じて、監督の富野が自分のやりたかった「大人っぽい」企画をスポンサーには秘密のまま上手く通した<ref>{{cite web |url= https://www.oricon.co.jp/special/52754/ |title= 大河原邦男、モビルスーツの生みの親が語るザク誕生秘話「ガンダムへの反骨心」1 |date= 2019-04-01 |accessdate= 2021-05-11 |website= ORICON NEWS |publisher= [[オリコン]] }} {{Wayback|url=https://www.oricon.co.jp/special/52754/ |date=20210512150350 }}</ref><ref name="leaders">{{cite web |url= https://leaders-online.jp/interview/2510#toc2 |title= 「継続は力なり」なぜ私はこの世界で第一人者になれたのか メカニックデザイナー 大河原邦男 |date= 2017-07-07 |accessdate= 2021-05-11 |website= LEADERS on-line |publisher= }} {{Wayback|url=https://leaders-online.jp/interview/2510#toc2 |date=20210511134041 }}</ref>。
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このように当初の企画「'''フリーダム・ファイター'''」では、前作のような[[ロボット]]を登場させる予定はなかった。しかし、スポンサーである[[クローバー (玩具メーカー)|クローバー]]からは空母の玩具を売っても商売にならないとして、ロボットも出すように要請があった。そこで、これまでの巨大ロボットとは異なる人型機動兵器である「'''[[モビルスーツ]]''' (MS)」が生み出された(詳細は「[[モビルスーツ#設定の経緯]]」を参照)。もともと舞台は宇宙であり、[[宇宙ステーション]]などが活躍の舞台になる予定であったが、MSの身長が18メートルと設定されたため、より巨大な「'''[[スペースコロニー|スペース・コロニー]]'''」に変更された(詳細は「[[サイド (ガンダムシリーズ)#設定の経緯(スペース・コロニー)]]」を参照)。
 
この時点での仮題は「'''ガンボーイ'''」(別題: '''機動鋼人ガンボーイ'''、'''宇宙戦闘団ガンボーイ'''、'''フリーダムファイター ガンボーイ''')だった(「ガンボット」という名称も考案されたが、ロボット的過ぎるとして却下された)。これが当時人気を博したアメリカ映画『[[コンボイ]]』から「'''ガンボイ'''」に、さらに[[チャールズ・ブロンソン]]がテレビCMで流行語にした「う〜ん、[[マンダム]]」から「フリーダム」のダムとかけて『'''ガンダム'''』という名前が生み出された<ref name="age2">『[[映画秘宝]]』関係者の中にいたガンダム野郎編「第1章 ガンダム大地に立つ 『機動戦士ガンダム』胎動と本放送 サンライズ企画案デスク(当時) 飯塚正夫INTERVIEW 『機動戦士ガンダム』誕生の秘密 いかにして『ガンダム』は大地に立ったか」『ガンダム・エイジ ガンプラ世代のためのガンダム読本』66-68頁。</ref><ref name="{{R|Gmono"/>}}。最終決定となったこの『ガンダム』の名はタカラ(現[[タカラトミー]])の[[沼本清海]]の発案によるものである<ref>『オタク学叢書VOL.4 ボトムズ・アライヴ』[[太田出版]]、2000年8月8日、ISBN 4-87233-529-5、204-205頁。</ref>。富野によると「ンのはいった四文字のタイトルの作品は当たる」というジンクスがあるという{{要出典|date=2021年2月}}。
 
== 作品の特徴 ==
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[[キャラクターデザイン]]はアニメーション・ディレクターとして作画の中心となった[[安彦良和]]が、[[メカニックデザイン]]は主に[[大河原邦男]]が担当した。
 
企画は当初、「[[スタジオぬえ]]」の代表(当時)の[[高千穂遙]]がサンライズのスタッフに勧めていたハインラインの小説『宇宙の戦士』のコンセプトを参考に、総監督の富野善幸のプランも相まって進んでいた<ref name="sankei1">{{cite web |url= https://www.sankei.com/article/20150830-DXNWRTZTIZJFNKOUVQPJV5AQNY/ |title= 安彦良和が語る「ガンダム THE ORIGIN」裏話「初めから大河原ありきではなかった」(1/4ページ) |date= 2015-08-30 |accessdate= 2021-05-11 |website= 産経ニュース |publisher= [[産経新聞]] }} {{Wayback|url=https://www.sankei.com/article/20150830-DXNWRTZTIZJFNKOUVQPJV5AQNY/ |date=20220520112902 }}</ref><ref name="mynavi1">{{cite web |url= https://news.mynavi.jp/article/20090526-ookawara/3 |title= 『機動戦士ガンダム』放送開始30周年記念企画 – メカデザイナー・大河原邦男氏に聞く! (3/5ページ) |date= 2009-05-26 |accessdate= 2021-05-11 |website= マイナビニュース |publisher= [[マイナビ]] }} {{Wayback|url=https://news.mynavi.jp/article/20090526-ookawara/3 |date=20210512220818 }}</ref>。その頃のサンライズ制作のアニメにはスタジオぬえが参加することが多かったが、そのデザインは線が多く複雑で、SF考証にもうるさかった<ref name="{{R|sankei1"/><ref name="|mynavi1"/>}}<ref name="sankei2">{{cite web |url= https://www.sankei.com/article/20150830-DXNWRTZTIZJFNKOUVQPJV5AQNY/2/ |title= 安彦良和が語る「ガンダム THE ORIGIN」裏話「初めから大河原ありきではなかった」(2/4ページ) |date= 2015-08-30 |accessdate= 2021-05-11 |website= 産経ニュース |publisher= [[産経新聞]] }} {{Wayback|url=https://www.sankei.com/article/20150830-DXNWRTZTIZJFNKOUVQPJV5AQNY/2/ |date=20220525141403 }}</ref>。アニメーターとしてはシンプルなデザインに越したことはなく、テレビアニメにはあまり理屈を持ち込むと自由がなくなるため、それまでのスタジオぬえとの仕事の経験から自分が消耗することを恐れた作画監督の安彦良和は、「あえて『ぬえ』ではないところに発注したい」と発言した<ref name="{{R|sankei1"/><ref name="|mynavi1"/><ref name="}}{{R|sankei2"/>}}。当時、アニメ業界でメカデザインを手掛けていたのはスタジオぬえのほかには[[タツノコプロ]]出身の[[中村光毅]]と大河原邦男が設立したデザインオフィス・メカマンしかなかった<ref name="{{R|leaders"/><ref name="}}{{R|sankei2"/>}}。また、安彦が「エンターテインメントを考えた場合、タツノコから来た人のほうがいいのではないか」と考えたため、美術に中村が、メカニックデザインには大河原が参加することが決まった{{efn2|当時のサンライズでは、安彦にかなりの権限があった。}}<ref name="{{R|leaders"/><ref name="}}{{R|mynavi1"/>}}
 
[[声優]]のキャスティングは音響監督の[[松浦典良]]による。後年の富野のインタビューによれば、アムロ役の[[古谷徹]]、シャア役の[[池田秀一]]からA、B、Cといった端役に至るまでほぼ全員が「はまり役」であり、演技指導もほとんどしなかったという<ref>{{Cite web |url=https://febri.jp/topics/series-amuro-10-1/ |title=「アムロ・レイの演じ方~古谷徹の演技・人物論~」第10回(前編) |website=Febri |accessdate=2023-04-24 }} {{Wayback|url=https://febri.jp/topics/series-amuro-10-1/ |date=20230425054758 }}</ref>。
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初回放送時の[[視聴率]]は名古屋地区で平均9.1%、関東地区で5.3%<ref>名古屋テレビ「GUNDAM HOMEPAGE PROJECT」より。外部リンク参照</ref>と振るわなかった。
 
視聴率低迷のため、スポンサーの要望によって量産型の他にいわゆる「やられメカ」を毎回出すことになり、試作機が投入されたという設定で [[グフ]]や[[ドム]]などの新MSや[[モビルアーマー]] (MA) が登場したが視聴率は好転しなかった<ref name="{{R|Gmono"/>}}{{efn2|本作が放送された土曜夕方は子どもが主な視聴層で、彼らには本作の「内容が難しすぎた」と指摘されている<ref>キネマ旬報社『キャラクタービジネス その構造と戦略』</ref>。}}。
 
視聴率低迷は関連商品の不振につながり<ref name="GS">猪俣謙次「2章 挫折から蘇ったガンダムの軌跡 ガンダム大地に立てず」『ガンダム神話』[[ダイヤモンド社]]、1995年6月9日、ISBN 4-478-95007-5、83-85頁。</ref>、スポンサーから「シャアという陰気なキャラクターがいけない」と指摘され作中でシャアを左遷したが、今度は「シャアが何で出ないのだ」という抗議の手紙が殺到した<ref>日経BP社技術研究部編「第三章 ビジネスの仕組みが変わる 二.ケーススタディー―ガンダム・ビジネス」『アニメ・ビジネスが変わる』[[日経BP社]]、1999年6月17日、ISBN 4-8222-2550-X、96-97頁。</ref>。こうした手紙は中高生のファンからであり、サンライズ側の当初の狙い通り、本作には中学生以上のファンがついていた<ref name="{{R|GS"/>}}。[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]の[[関岡渉]]によると左遷どころか殺す予定だったのをスタッフを説得して取りやめになったとある<ref name="nikki">{{Cite journal|和書|journal=日経キャラクターズ|issue=2006年8月号|publisher=日経BP社}}</ref>。
 
その後もテコ入れが試みられたが([[#商業的事情|後述]])視聴率も売り上げも挽回できず、全52話の予定が全43話に短縮される形の[[打ち切り]]となった{{efn2|当初の52話分の構想について、富野がそれを記した「トミノメモ」と呼ばれるものが存在している。『機動戦士ガンダム 記録全集5』などで、打ち切りによって変更された部分を読むことができる。また、これに書かれたMSの名前などの中には、後に続編や[[モビルスーツバリエーション]]の中で用いられたものもある。}}。シリーズ途中で安彦良和が病気で現場を離れるなど、製作スタッフの疲弊も激しかった。
 
ところが打ち切りが決まった直後から人気が上昇。最終回でアムロは死ぬ予定だったが、関岡が人気の盛り上がりから再放送や続編制作が期待できるため反対して取りやめになった<ref name="{{R|nikki"/>}}。また、放送当時から[[アニメ雑誌]]がたびたび熱意ある特集記事を組むなど、中高生、特に女子を中心に口コミで徐々に評判が高まった{{efn2|サンライズの[[植田益朗]]は、放送当初は6割くらいが[[安彦良和]]の絵を好む女性ファンだったとしている<ref>竹書房『新機動戦記ガンダムW パーフェクト・アーカイブ・シリーズ10』</ref>。}}。放送回数は打ち切り決定当時の43話のままで終了したが、本放送終了後もアニメファンによる再放送要請嘆願署名が行われるなど熱意が衰えず、これらを受けてクローバーは再放送を決定した<ref name="MDR81">{{Cite journal|和書|journal=マーチャンダイジングライツレポート|issue=1981年6月号|publisher=商品化権資料センター}}</ref>。こうして再放送、再々放送が重ねられ、世間一般へ本作が浸透していった。再放送では平均視聴率も10%を超え、1981年における関東地区で17.9%、1982年における名古屋地区で25.7%(最高視聴率29.1%)を記録した。
 
放映終了半年後に[[バンダイ]]から発売されたMSのプラモデルが爆発的な売れ行きを見せ、'''[[ガンプラ]]'''と呼ばれた([[#商業的事情|後述]])。後の劇場版公開もあわせ、社会現象ともいえるブームを巻き起こした。その後も本作と世界観や設定、歴史などを踏襲、あるいは共有する[[小説]]や[[漫画]]が数多く制作された、[[メディアミックス]]の先駆けともいえる作品である。
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=== 商業的事情 ===
サンライズは前述のように本作を中学生以上向けに作っていたが、スポンサーが集まらない懸念があったため、[[創通エージェンシー]]はスポンサーには低年齢向けと説明していた<ref name="{{R|nikki"/>}}。こうして各社とも前2作『無敵超人ザンボット3』、『無敵鋼人ダイターン3』と同じく、小学生以下向けの商品を展開したことからミスマッチが起き<ref name="{{R|MDR81"/>}}、せっかくの中高生ファンを取り込むことが出来ず、関連商品は不振に陥った。そこでクローバーの要請により、1979年9月に[[Gアーマー]]が登場し、同月にはGアーマーとガンダムをセットにした「ガンダムDX合体セット」が発売されたが、売上増には結び付かなかった<ref name="{{R|MDR81"/>}}
 
企画当初、アニメ制作陣は、この作品を画期的な作品とすべく、数々の斬新な案を用意していた。その中には「主役のガンダムのカラーリングは白一色」という、これまでの子供向けアニメの常識を打ち破る設定もあった。しかしスポンサー筋から「TVアニメのスポンサーを引き受ける目的はTV画面に登場するキャラクターの商品化なのに、主役のロボットが白一色では売れるわけがない。子供のオモチャは赤青黄色の三原色を使うのが常識。ガンダムも赤青黄色で塗れ。」との意見があった。スポンサーの意思(というより事実上の命令)を無視出来なかったため、仕方なく胴体部分のみ申し訳程度に赤青黄色の三原色を彩色した{{efn2|この時間枠の作品では、本作終了から4年後に放映された『[[重戦機エルガイム]]』において、「ほぼ白一色の主役メカ」が実現している。}}。尚、企画段階でガンダムが白い事に反対していたクローバーは、ガンダムにある白い箇所の大部分を銀色に独自解釈し、自社の玩具では色を変えて販売していた。
 
名古屋テレビの関岡の証言では、局の立場としては番組を打ち切り対象にする程ではなかったが、玩具業界のサイクルでは年末年始の次は3月の春休みに需要が見込めるため、2月に新番組を投入すれば、ちょうどその時期に玩具が売れて経営危機を乗り切れるのではないかと判断され、乗り換え需要を喚起するために1月一杯で打ち切りが決定したという見方が有力である<ref>{{Cite book|和書|year=1999|title=富野由悠季全仕事―1964-1999|publisher=キネマ旬報社|isbn= 4873765145 }}</ref>。サンライズの飯塚正夫は「オモチャが売れるクリスマスとお正月のお年玉のある1月までは何とか放送してもらえる事になった」と述べている<ref name="{{R|age2"/>}}。ところが年末商戦で「DX合体セット」が好調な売れ行きを示し、クローバーは慌てて延長をサンライズに打診したものの実現しなかった<ref name="GG">{{Cite book|和書|author=五十嵐浩司|year=1999|title=ガンプラ・ジェネレーション|publisher=講談社|isbn= 4063300749 }}</ref>。
 
前述のように本放送時に関連商品を展開した会社は軒並み失敗したが、アニメ雑誌『[[アニメック]]』を発行し、アニメショップ『アニメック』を経営していた[[ラポート]]だけはアニメファンの盛り上がりをいち早く掴んでいた。同社はアニメファン向けの商品を本放映時、既に展開してファンを盛り上げていった。
 
一方で玩具の売上不振を補うべく、サンライズはクローバーにプラモデルの商品化を打診していたが、「売れないキャラクターの商品を増やしてもしょうがない」と拒否された。そこでサンライズはクローバーの了解を得て他社にプラモの商品化を呼びかけた<ref name="{{R|Gmono"/>}}。ところが本作のもう一つの版権元であり、版権窓口でもある創通エージェンシーはクローバーの玩具販売に悪影響が出る事を懸念し、[[アオシマ]]にプラモ化を打診した。しかし、打ち切りが決まっていたため、[[無敵ロボ トライダーG7|次回作]]で模型化を行なうこととなり、ガンダムのプラモ化は断られた。そのような中でも創通は、『宇宙戦艦ヤマト』の模型を販売していた[[バンダイ模型]]に打診、長い交渉の末、1979年の暮れに創通が折れる形でバンダイ模型が商品化権を取得した<ref>{{Cite book|和書|author=猪俣謙次、加藤智|year=2006|title=ガンプラ開発真話|publisher=メディアワークス|isbn= 4840234396 }}</ref>。こうして放映終了半年後に発売されたプラモデルが爆発的な売れ行きを見せ、ガンダム人気を広げる一助となった。大変な人気を得た事でガンダムのプラモは[[ガンプラ]]と呼ばれるようになり、更には「[[モビルスーツバリエーション]]」と呼ばれる派生シリーズを産み、それらにおける種々の設定はアニメ雑誌において生み出された設定と合わせてガンダムの世界観をより深く掘り下げるものとなった。1982年にはプラモデル市場は過去最高の市場規模になった<ref name="TJ84">{{Cite journal|和書|journal=月刊トイジャーナル|issue=1984年3月号|publisher=東京玩具人形問屋協同組合}}</ref>。
 
こうした経緯のため、「ガンダムブームはラポートが火をつけ、バンダイが築いた」と評されている<ref>{{Cite journal|和書|journal=マーチャンダイジングライツレポート|issue=1982年8月号|publisher=商品化権資料センター}}</ref>。劇場版公開の頃になると各社とも本作のファン層に合わせた商品展開をしていたが、ファンの低年齢化によってアニメファン向け以外の商品も売れるようになっていった<ref name="{{R|MDR81"/>}}。また、ガンプラや各種トイも今尚、初代ガンダムやザクの新型アイテムが発売される等、根強い人気を保っている。近年では[[MS-06ザクとうふ|ザクとうふ]]等、ファンシーな商品も発売され、ファン層を拡大させている。
 
== あらすじ ==
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|[[愛媛県]]||[[南海放送]]||水曜 17:25 - 17:55<ref>[https://suzunami.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_312/suzunami/E58D97E6B5B7E694BEE980818004.jpg] {{Wayback|url=https://suzunami.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_312/suzunami/E58D97E6B5B7E694BEE980818004.jpg|date=20200328135303}}</ref>||日本テレビ系列||
|-
|[[高知県]]||[[テレビ高知]]||土曜 6:30 - 7:00<ref name="{{R|80y7m" />}}||rowspan="5"|TBS系列||
|-
|[[長崎県]]||[[長崎放送]]||火曜 17:20 - 17:50<ref name="{{R|80y7m" />}}||
|-
|[[熊本県]]||[[熊本放送]]||火曜 17:00 - 17:30<ref name="{{R|80y7m" />}}||本放送終了後の1980年7月1日放送開始。
|-
|[[大分県]]||[[大分放送]]||月曜 17:20 - 17:50<ref name="{{R|80y7m" />}}||
|-
|[[宮崎県]]||[[宮崎放送]]||日曜 15:00 - 15:30||
|-
|[[鹿児島県]]||[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]||月曜 17:45 - 18:15<ref name="{{R|80y7m" />}}||フジテレビ系列<br>日本テレビ系列<br>テレビ朝日系列||
|-
|[[沖縄県]]||[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]||火曜 17:30 - 18:00<ref name="{{R|80y7m" />}}||フジテレビ系列||1980年3月18日から放送<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメージュ]] |issue=1980年4月号 |publisher=[[徳間書店]] |title=全国放映リスト |pages=65}}</ref>
|}
 
406行目:
 
* 第1話は、映像は第2話以降と同じだが、効果音が異なるもの。
* 第2話から第11話、第43話<ref group=注>{{Efn2|第2話-第11話のパターンに戻した理由は、第43話のAパート終了時点で、主役機のガンダムが撃破された為だった。</ref>}}は、タイトルロゴのみでガンダムは登場しないもの。
* 第12話から第42話は、ガンダムとタイトルロゴが登場するもの。
 
419行目:
1980年10月2日発売の『[[日刊スポーツ]]』で、「'''ポスト・ヤマトはガンダムだ'''」との見出しで本作の映画化のスクープが報じられた<ref name="rekishi-34">『ラポートデラックス 機動戦士ガンダム 宇宙世紀vol.1 歴史編』ラポート、1998年8月、34-35頁。</ref><ref name="otoko2-48">[[大和田秀樹]]『ガンダムを創った男たち。』下巻、角川書店、2014年1月、48-49頁。</ref>。
 
1週間後の9日には[[築地]]の東劇ビル最上階にあったレストラン「エスカルゴ」で公式に劇場版の製作発表記者会見がおこなわれた。富野や安彦のほか、日本サンライズや配給元の[[松竹]]からも複数の関係者が出席した大々的な会見となったが<ref name="{{R|rekishi-34" /><ref name="|otoko2-48" />}}、その中で富野は、単なる再編集のダイジェスト版にはしたくない、43話を2時間半の1本の映画にまとめるのは不可能であり、何本かにならざるを得ないことを松竹に了承してもらった上でこの話を受けたと語った<ref>『ケイブンシャの大百科81 映画版 機動戦士ガンダム大百科』勁文社、1981年5月、162-165頁。</ref>。もとより富野は映画化決定以前のインタビューでも、映画化するなら4部構成でやりたいと発言していた<ref>「富野喜幸総監督が語るガンダム「映画」案の全貌(『[[アニメージュ]]』1980年3月号より再録)」[[氷川竜介]]・[[藤津亮太]]編『キネ旬ムック ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』[[キネマ旬報社]]、2000年10月、158-165頁、ISBN 4-87376-537-4。</ref>。しかし、現実的に続編の制作は1作目の業績次第であり、そのため劇場版第1作には富野が望んだ連番の "I" および[[サブタイトル]]を付けることは(慣例的にも)許されなかった<ref name="hatsugen-192">「“めぐりあい宇宙へ”」『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』キネマ旬報社、2000年10月16日、192-204頁。</ref>。
 
第1作の公開に先立つ1981年2月22日、プロモーションの一環として2つのイベントがおこなわれた。午前中には[[新宿ピカデリー|新宿松竹会館]]で入場者数を限定した「ガンダムフェスティバル」が開催され、大成功のうちに終了<ref>[[大和田秀樹]]『ガンダムを創った男たち。』下巻、角川書店、2014年1月、224-226頁。</ref>。そして午後には、[[新宿アルタ]]前(新宿東口ステーションスクエア)で「'''アニメ新世紀宣言大会'''」が開催された。「ガンダム5000人キャンペーン」と銘打たれたものの、実際には公称約2万人(各ファンクラブの集計によれば実数1万2千人)ものファンが詰めかけた<ref name="rekishi-38">『機動戦士ガンダム 宇宙世紀vol.1 歴史編』ラポート、1998年8月、38-39頁。</ref>。中には本作の登場人物やMSの[[コスプレ]](当時はまだ一般的ではなく、雑誌『[[ファンロード]]』では「トミノコ族」と称された<ref>『ファンロード』1980年8月号、ラポート、38-39頁。</ref>{{efn2|当時は「[[竹の子族]]」が流行していた。}})をした者たちもおり、代表として「アニメ新世紀宣言」をスピーチしたファンも[[シャア・アズナブル|シャア]]と[[ララァ・スン|ララァ]]のコスプレをしていたが、このふたりはのちに富野の作品や『ガンダム』の続編にも携わることになる[[永野護]]と[[川村万梨阿]]であった<ref>「新世紀宣言」『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』キネマ旬報社、2000年10月16日、166-169頁。</ref>。また、予想をはるかに超える動員によって警備員やボランティアによる整理が追いつかず、将棋倒しも起こりかねない危険な状況もあったが、富野がマイクを握り、ここで事故があれば世間は「所詮はアニメファンのイベント」と判断するだろうと発言したことで参加者は冷静さを取り戻したといわれ、イベントは無事に終了した<ref name="{{R|rekishi-38" />}}
 
結果的に、劇場版第1作は大ヒットに終わった。特に前売り券は行列ができるほどの驚異的な売れ行きを見せ、続編の実現の鍵になったとされる。続編においても行列はファンが参加できる「祭り」として重要な役割を担ったという<ref>[[大和田秀樹]]『ガンダムを創った男たち。』下巻、角川書店、2014年1月、99頁。</ref>。最終的には、当初の構想より少ない3部構成でテレビ版の最終話までの映画化が実現された。
432行目:
: テレビ版の第1話から第14話前半までを再編集した第1作で、[[1981年]][[3月14日]]に全国[[松竹]]系にて公開された。[[興行収入#配給収入|配給収入]]は9億3700万円<ref name="kinejun198202b">{{Cite journal|和書|year=1982|title=1981年邦画4社<封切配収ベスト作品>|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1982年]]([[昭和]]57年)[[2月]]下旬号|pages=124|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。
; {{Anchors|機動戦士ガンダムII 哀・戦士編}}機動戦士ガンダムII 哀・戦士編
: 第16話から第31話前半までを再編集した第2作で、1981年[[7月11日]]に公開された。本作では、テレビ版と第1作の録音監督である[[松浦典良]]が降板。「松浦さんが降りるなら、僕たちも降りる」と[[古谷徹]]、[[鈴置洋孝]]、[[井上瑤]]、[[鵜飼るみ子]]と主だった声優陣が松浦に続こうとしたが、サンライズは拒否した。結局、自宅を訪れた声優陣を松浦が説得したことで騒動は収束したが、松浦は復帰せず録音監督は[[浦上靖夫]]に交代、この騒動の余波で『ガンダム』の声優陣の待遇が改善されたという<ref>池田秀一「第5章 去り逝く仲間たちへ…… 恩人・松浦典良さんへ」『シャアへの鎮魂歌 わが青春の赤い彗星』[[ワニブックス]]、2007年1月7日、ISBN 4-8470-1700-5、167-169頁。</ref>。配給収入は7億7000万円<ref name="{{R|kinejun198202b" />}}
; {{Anchors|機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編}}機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙(そら)編
: 第31話後半から第43話までを再編集した第3作で、[[1982年]][[3月13日]]に公開された。75パーセントが新撮であった<ref>『スーパーロボット画報』1997年12月24日、竹書房、73頁。</ref>。テレビ版の終盤で降板した安彦良和が前2作以上に多くの新作カットを担当したこともあり、作画のクオリティはテレビ版より大幅に向上している。配給収入は、同年公開のアニメ映画で第1位の12億9000万円<ref>{{映連配給収入|1982}}</ref>のヒットを記録した。