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おそ18 (会話 | 投稿記録)
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=== 第一次国共内戦 ===
毛は国共合作において重要な役割を果たしていたが、[[1927年]][[4月12日]]の[[上海クーデター]]で国共合作は崩壊した。その直後の[[4月27日]]から[[5月10日]]にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。[[8月7日]]に[[漢口]]において開催された党中央緊急会議(「[[八七会議]]」)において、毛は「[[:zh:枪杆子里面出政权|武力で政権を打ち立てる]]」方針を提案し、国民党との武装闘争が党の方針として決議された。さらに毛は臨時中央政治局候補委員に選出された。「八七会議」の決議を受けた毛は、9月9日に湖南省で武装蜂起するも失敗し([[秋収起義]])、配下の農民兵と共に孤立して家族とも離れて湖南省と江西省の境にある[[井崗山]]に立てこもることになった。なお、この根拠地に潜伏中、[[江西省]]出身の女性の[[賀子珍]]と暮らすようになり<ref>{{Cite book |author=Hollingworth, Clare, |year=1985 |url=https://lccn.loc.gov/85175644 |title=Mao and the men against him (|publisher=Jonathan Cape, London: 1985),|ISBN=0224017608 p.|crid=1130000797105864576 |page=45.}}</ref>、[[1929年]]には長女が誕生している。1927年11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。[[1928年]]7月、第6回党大会において中央委員に選出。
 
井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から[[1931年]]にかけて湖南省・江西省・[[福建省]]・[[浙江省]]の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省[[瑞金]]に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト共和国臨時中央政府]]」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や[[朱徳]]など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」という[[ゲリラ]]作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた<ref>高文謙『周恩来秘録 党機密文書は語る』上(上村幸治訳、文藝春秋、2007年)、48ページ。</ref>。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、[[1932年]]10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに[[1933年]]1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は[[1934年]]1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。
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* [[麻雀]]の名手であった。自身、「麻雀は[[漢方]]、『[[紅楼夢]]』とともに世界に三大貢献した。」と評価し、高度な戦略を磨き確率性と確実性の関連を学ぶことができるとして楽しんでいた。
* 歯磨き粉をめぐる毛沢東の噂話は幾つかのバージョンがある。いずれもオチつきである。一つは、昔は缶入りの粉歯磨きばかりであったが、やがてチューブ入りの練り歯磨きが出て来たときに、毛沢東は我が国は未だ貧しい、その間は自分は最新のチューブ式歯磨きでなく、昔ながらの缶入りの歯磨き粉でいいと言って、従来通りの粉歯磨き粉を愛用していたが、お茶好きの毛沢東は歯に茶渋がつくため、すぐに歯が黒くなり、そのため、ヘビースモーカーが歯のヤニを落すために使うような極めて研磨力の強い[[歯磨剤|歯磨き粉]]を愛用していた、そのため、歯のエナメル質が削れて、結局かえって多くの歯を失うことになったというものである。別の話では、市中に練り歯磨きが普及してからも、やはりそれを使おうとしなかった、やがて歯磨き粉の生産中止が決定し、部下が次第を報告すると「オレは生まれてこの方、歯磨き粉しか知らないからこれしか使わない。お前たちが練り歯磨きを使うのは勝手だが、オレに練り歯磨きを強制するのは止めろ」と命じたので、生産中止は撤回され、上海の国営工場で、毛沢東一人のためだけに細々と歯磨き粉の生産が継続された、ともあり<ref name="hok2005" />、湖南省韶山市の毛沢東同志記念館には曰くつきのその歯磨き粉が展示されているという。別の話では、毛沢東はお茶を飲んでいれば、虫歯をふせげると信じ、歯磨きをしなかった、そのために、彼の歯は茶渋で真っ黒だったという。これらの話では、歯とくに前歯が黒ずんだか、あるいは歯を失ったかで、それを見られるのを気にして、毛沢東は人前ではあまり口を開けなかったとされる。中には、伝えられるうちに緑茶を良く知らない西洋人によって変形したものと思われるが、緑茶という言葉からか、茶渋で黒ずんでいたではなく、「まるで口内に緑色のペンキが塗ってあるよう」だったとなっている話もある<ref>{{Cite web |url=https://gendai.media/articles/-/56409 |title=毛沢東が人生で一度も歯を磨かなかった呆れた理由 |access-date=2022-06-17 |website=週刊現代}}</ref>。
* 毛は共産党の正統性を宣伝するため[[魯迅]]を利用したことで中国での名声が高まった。本人は特に[[阿Q正伝]]を気に入っており、談話でしばしば「阿Q精神」を引き合いに出した<ref>[http{{Cite journal|和書|author=小山三郎 |date=1989-03 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/downloaddetail.php?file_idkoara_id=71890AN00072643-00540001-0194 |title=毛沢東の魯迅評価]について |journal=藝文研究 |ISSN=0435-1630 |publisher=慶應義塾大学藝文学会 |volume=54 |pages=194-216 |CRID=1050001338948820864}}</ref>。
* 毛沢東は[[呂蒙]]に感銘を受けた人物の一人であり、部下への訓告に際しては度々呂蒙の生きざまを引き合いに出している。彼自身、幾度も『呂蒙伝』を読み込んでおり、特に[[孫権]]が呂蒙の事を論じた『学門開益、籌略奇至(学問に懸命に取り組み、ずば抜けた策略を得るに至った)』という言葉を大いに気に入っていた。また、[[陳寿]]が評した『呂蒙勇而有謀』の六字を部屋中にびっしりと書き加えていたという逸話もある。1958年に安徽省へ視察へ出向いた際には、同行していた[[羅瑞卿]]や[[張治中]]へ「呂蒙は一兵卒として従軍し、驍勇にして胆略を有していたが、教養を持っていなかった。将軍となってからもそれは変わらず、軍事上の報告をする際には口述して書き写させていた。甚だ不便といえる。孫権が彼に書を読むよう勧めると、彼は軍務が多忙で時間が無いと言ったが、孫権は自らを引き合いに出し、ただやると決心する事が重要であり、時間など大した問題ではないと説いた。呂蒙は孫権の忠告を聞き入れ、刻苦しながらも自ら勉学に励み、数年の後には別人のようになった。そして後に東呉の将帥となり、数多の戦を勝利に導き、関羽を麦城へ敗走させたのだ。我が軍の高級官僚も十中八九が行伍(一兵卒)の出身であり、今になって教養を学んでいる。彼らは『呂蒙伝』を読まないわけにはいかぬ」と語った。また、その後もある時には「呂蒙は用兵を巧みにしてよく敵の心を攻めたが、もし節を曲げて書を読む事が無ければ、どうして東呉の将帥足りたただろうか。我ら解放軍には行伍が多い。『呂蒙伝』を読まねばならない」とも周囲に語っていたという。1972年には『呂蒙伝』の注釈書の作成を監修し、幾度も自ら指摘を行って修正させている。そしてこの際にも、呂蒙が出世してから本を読むようになった事を引き合いに出し、高級官僚に対して学問を学ぶ事の重要性を説いている。