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|ar_called = 吹上城、吹揚城
|struct = 輪郭式平城([[海城 (城郭)|海城]])
|tower_struct = 5重6階不詳''諸説あり''(非現存・[[慶長]]13年([[1608年]]))<br/>望楼型5重6階模擬([[RC造]]・[[昭和55年]]([[1980年]])築)
|builders = [[藤堂高虎]]
|build_y = [[慶長]]7年([[1602年]])
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[[昭和]]55年([[1980年]])に5層6階の天守が[[鉄筋コンクリート]]で建てられた。詳細は[[#天守の存否|後述(天守の存否)]]を参照。
 
昭和60年([[1985年]])に東隅櫓が御金櫓として外観復元再建された。外観は今治藩医の[[半井梧庵]]が残した写真をもとに外観復元されている。名称は今治城の古絵図において東隅櫓に御金蔵という蔵が併設されていたことに因る。
 
[[平成]]2年([[1990年]])に二の丸西隅山里櫓が木造復元再建された。
 
平成18年([[2006年]])[[4月6日]]、[[日本100名城]](79番)に選定された。
 
平成19年(2007年)9月、可能な限り[[江戸時代]]の史実に基づき、鉄御門(くろがねごもん)が石垣や多聞櫓5棟ともに木造復元された。また、二の丸に藤堂高虎の像が建立された。
 
==== 石垣・内堀の改修について ====
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今治城の再建天守は、当初の建築の実在について明確な資料が少ないため、史実に基づかない模擬天守である。
 
往時の天守は亀山城に移築されたと伝えられ、亀山城天守については[[明治]]初年に撮影された古写真や平面図が残されており、おおよその形状がわかっている。そのため、今治城天守の再建に際しては亀山城天守の外観を参考にしたとされているが、実際には亀山城天守が層塔型の構造で最上重の唐破風と入母屋破風のみであるのに対し、再建天守は望楼型の構造で大入母屋破風を基部としており、張り出しや出窓など亀山城にはない意匠が施されている。また、天守の位置も本丸の中央付近と推定されているが、本丸塁線上の二重櫓(北隅櫓)跡に建てられている。又、これ以上の建物の木造復元計画はない
 
最上階からは、[[しまなみ海道]]の[[来島海峡大橋]]が見えるなど、[[瀬戸内海]]を眺望することができる。