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[[黄龍 (呉)|黄龍]]元年([[229年]])、孫権が[[皇帝]]を号すると[[大将軍]]に任じられ、[[左都護]]・[[豫州]][[刺史|牧]]を兼任した。
 
[[嘉禾]]3年([[234年]])には三方面攻略を期した孫権は諸葛亮と連絡して共に北伐を行い、孫権の命令で、陸遜と共に襄陽に進軍している。作戦の途中で、連絡の使者が敵に捕らえられるという事件が勃発したため、諸葛瑾は動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ[[泰然自若]]としていた。諸葛瑾は陸遜には考えがあるのだと察した。諸葛瑾が陸遜の元を訪れると、陸遜が冷静に退却策を示したため諸葛瑾はそれに従い、損害を出さずに撤退することに成功した<ref>『三国志』呉志 [[陸遜]]伝</ref>。陸遜と諸葛瑾は襄陽から撤退の途上、白囲まで来たところで、表向きは[[狩猟]]をすると偽って[[奇襲]]の準備をし、将軍の[[張梁]]と[[周峻]]に命じて江夏の[[新市]]・[[安陸]]・[[石陽]]を急襲させ、魏軍千余人を斬った。特に石陽の人々は油断していたため、動揺した魏の[[将]]は城内に避難しようと殺到する多くの[[民]]を[[殺害]]した上でやっとのことで[[城門]]を閉ざすことが出来た有り様であった。陸遜と諸葛瑾らは生存者を捕虜にして、江夏郡の安陸・石陽城を攻め落とした<ref>『三国志』呉志 陸遜伝・諸葛瑾伝・『建康実録』</ref>。
 
[[酷吏]]である[[呂壱]]が台頭すると、官僚たちの不正を糾弾し、恐れられた。孫権は後に過ちに気づき陳謝し、[[重臣]]達に向けて[[国政]]{{要曖昧さ回避|date=2022年5月}}に対する意見を求めた。諸葛瑾等は自分は武官なので国政のことはわからない。孫権が[[詔勅]]による彼等を責めたため、諸葛瑾は具体的に回答を示した<ref name="#1"/>。