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{{by|1992年}}も18勝を挙げ、2年連続で最多勝や最多奪三振などのタイトルを獲得した。
 
{{by|1993年}}にも5試合連続2桁奪三振を記録。この年の終盤は、[[オリックスブルーウェーブ]]の[[野田浩司]]と激しい最多勝争いを繰り広げる。両者14勝で迎えた10月1日、野茂は対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦で、[[マックス・ベナブル]]の打球を頭に受け、「病院なんか行かんでいいです」とそのまま歩いてベンチに退く<ref>読売新聞1993年10月2日19面</ref>。しかし、その後、頭蓋骨を骨折していたことが判明し<ref>朝日新聞1993年10月3日23面</ref>、最多勝は絶望視される<ref>毎日新聞1993年10月9日23面</ref>。しかし、9日後の10月9日に復帰し、先発で7回2/3を144球<ref name=mainichi1018/>、1安打9四死球3失点で15勝目を挙げる。続いて中4日で先発した同14日のロッテ戦では同点で延長戦に突入するも、味方が10回表に勝ち越し、その裏は赤堀が抑えて16勝目を挙げる。しかし、同日には野田も17勝目を挙げて全日程を終了した。そのため、野茂はこの182球投げたロッテ戦から中2日でチーム最終戦となる対[[西武ライオンズ]]戦に先発<ref name=yomiuri1018/>。9回裏2アウトまでリードを保ち、最多勝確定まであとアウト1つまで迫るも同点に追いつかれる<ref name=mainichi1018>毎日新聞1993年10月18日19面</ref>。しかし、11回表に味方が勝ち越し、その裏は赤堀が抑えたことで、すでに全日程を野田に並んで最多勝を決めた(10回177球、4失点<ref name=mainichi1018/>)。西武の[[森祇晶]]監督からは、「野茂のために試合をやったようなもの。価値のない最多勝や」と皮肉を言われた<ref name=yomiuri1018>読売新聞1993年10月18日23面</ref>。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成(新人からの4年連続最多奪三振は他に[[江夏豊]]がいるが、当時はタイトルではなかった)。
{{by|1993年}}にも5試合連続2桁奪三振を記録。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成(新人からの4年連続最多奪三振は他に[[江夏豊]]がいるが、当時はタイトルではなかった)。
 
{{by|1994年}}は開幕戦の西武戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])で4回までに11奪三振、8回まで無安打に抑えたが、9回に先頭の[[清原和博]]に安打を打たれてノーヒットは途切れた。その後2四球で満塁となったとこで[[赤堀元之]]に交代したが、この試合前監督の[[鈴木啓示]]は「今日は野茂と心中や」とマスコミに発言しており、その言葉を聞いてた赤堀もそれを鵜呑みにしていたこともあり準備不足の中登板し[[伊東勤]]に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びて敗戦した<ref>{{Cite web |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/235004 |title=【赤堀元之コラム】「野茂と心中」のはずが交代?マジ? |publisher=東スポWEB |date=2022-07-21 |accessdate=2022-11-30}}</ref>(野茂も鈴木の言葉を信じていただけにこの降板でモチベーションは下がった<ref>{{Cite web |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20220615-13&from=db_art |title=最後は球速140キロ止まり…苦しんだ5年目の野茂英雄、日本ラスト登板の西武戦【プロ野球回顧録】 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2022-06-15 |accessdate=2022-11-30}}</ref>)。7月1日の西武戦では1試合16与四球の日本記録を作ったが、191球を投げて3失点完投勝利を挙げた。8月に右肩痛のためシーズン途中で戦線を離脱したため8勝、126奪三振に留まり、最多勝と最多奪三振の連続記録も途切れた。