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近畿では幕府および旧幕府勢力は勢力を減じ、薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、[[東山道]]・[[東海道]]・[[北陸道]]に分かれ[[2月 (旧暦)|2月]]初旬には東進を開始した。
 
== 西国および東海北陸の状況 ==
西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間では[[備後福山藩|福山藩]](藩主急逝により態度表明が遅れた)を除きほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。[[東海地方]]および[[北陸地方]]では尾張藩が勤皇誘引使を諸藩代官へおくり勤皇証書を出させ日和見的立場から中立化に成功した。これらの西国の藩に対し、銃兵と砲兵以外の騎士や弓槍兵、従者を禁止し、新政府の中央司令による軍事編成介入により一挙の近代軍化を強制して諸藩は従わざるを得なかった{{Sfn|保谷|2007|p=115-127}}。
 
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=== 東山道(中山道) ===
1月9日、岩倉具定が東山道鎮撫総督に任じられ、21日に京都を出発した。なお、大垣藩は鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属していたが、直後に新政府に対して異心が無いことを表明して東山道軍の先鋒となっている。東山道(中山道)筋の諸藩は[[定府大名]]が多く、江戸の居住そのものが旧幕府への加担としての疑惑を持たれたことから、沿道諸藩は対応に苦慮した。だが、多くの藩では国元では抵抗を行わず、藩主が鎮撫総督に恭順の意思を示したことで一旦下された謹慎や所領没収などの処分は解除されている。むしろ、[[北関東]]に入ると、諸藩への対応よりも同地において発生した[[世直し一揆]]などの動きへの対応に迫られることになった。
=== 北陸道 ===
[[北陸道]]鎮撫総督の高倉は小浜藩の酒井忠禄を先鋒として[[越前]] [[加賀]] [[能登]] [[越中]] [[越後]]と日本海側を北上した。
 
=== 丹波・山陰道 ===