削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加
95行目:
骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を 期せんや
[[wikt:人間到る処青山あり|人間 到るところ青山あり]])</poem>
|釈月性 将東遊題壁<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn30.htm
|title=釈月性 将東遊題壁
|work=碇豊長の詩詞 詩詞世界
|accessdate=2010-08-01
}}</ref> 「碇豊長の詩詞 詩詞世界<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/
|title=碇豊長の詩詞 詩詞世界
273行目:
 
;「和尚打傘」
:アメリカ人ジャーナリストの[[エドガー・スノー]]との対談で"和尚打傘"({{Lang-zh|和尚打伞}})と述べた。これは「(傘をさした和尚は)髪もなければ、天も見えない({{Lang-zh|无发无天}})」と「やりたい放題({{Lang-zh|无法无天}})」をかけた{{仮リンク|歇後語|zh|歇後語}}([[言葉遊び]])であったが、通訳の[[唐聞生]]がアメリカ育ちであったために意味を汲み取れず、「和尚が傘をさす」と直訳した。このためスノーは、毛主席の言葉を「自らを、傘を手に歩む孤独な行脚僧とイメージしている」などと紹介し、「なにものにも束縛されず、自分の道を歩んできた」という毛沢東の本来の意図とはむしろ逆のメッセージが全世界に発信された<ref>{{Cite web|和書|title=毛沢東主席とは正反対?…温首相がキッシンジャー氏に「傘」 (2009年10月13日)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20091013050/|website=エキサイトニュース|accessdate=2021-02-05|publisher=|author=如月隼人|date=2009-10-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=最近の≪ことば≫に見る中国事情|url=http://koyukai.boo.jp/2017/08/26/jiangyan-jiu/|accessdate=2021-02-05|publisher=日中学院校友会|date=2014-4-20|author=丹藤佳紀|authorlink=丹藤佳紀}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=お言葉ですが・・・7 漢字語源の筋ちがい|url=https://www.worldcat.org/oclc/169957192|publisher=文藝春秋|location=東京|isbn=4-16-759808-6|oclc=169957192|year=2006|pages=53-54|first=俊男|author-link=高島俊男}}</ref>。
 
== 著作・講話 ==
300行目:
* スポーツは水泳を好んだ。中国全土に建設された毛専用の別荘には、かならずプールが備えつけられていた。[[ニキータ・フルシチョフ|フルチショフ]]が訪中した際は、プール際にまで彼を呼びつけ、金槌である彼をからかうようなそぶりでプールを自由に泳ぎまわる際どい外交戦術を展開したこともある。さらに黄河などで自らの水泳する姿を写真に撮らせて新聞に載せ、意気盛んな様子をアピールしたことも良く知られている。また、最晩年に中南海の菊香書屋を出て、移り住んだ終の棲家は中南海のプールの更衣室(脱衣場)であった<ref name="Yun2005">[[毛沢東#ユン(2005)|ユン(2005)]]</ref>。
* [[麻雀]]の名手であった。自身、「麻雀は[[漢方]]、『[[紅楼夢]]』とともに世界に三大貢献した。」と評価し、高度な戦略を磨き確率性と確実性の関連を学ぶことができるとして楽しんでいた。
* 歯磨き粉をめぐる毛沢東の噂話は幾つかのバージョンがある。いずれもオチつきである。一つは、昔は缶入りの粉歯磨きばかりであったが、やがてチューブ入りの練り歯磨きが出て来たときに、毛沢東は我が国は未だ貧しい、その間は自分は最新のチューブ式歯磨きでなく、昔ながらの缶入りの歯磨き粉でいいと言って、従来通りの粉歯磨き粉を愛用していたが、お茶好きの毛沢東は歯に茶渋がつくため、すぐに歯が黒くなり、そのため、ヘビースモーカーが歯のヤニを落すために使うような極めて研磨力の強い[[歯磨剤|歯磨き粉]]を愛用していた、そのため、歯のエナメル質が削れて、結局かえって多くの歯を失うことになったというものである。別の話では、市中に練り歯磨きが普及してからも、やはりそれを使おうとしなかった、やがて歯磨き粉の生産中止が決定し、部下が次第を報告すると「オレは生まれてこの方、歯磨き粉しか知らないからこれしか使わない。お前たちが練り歯磨きを使うのは勝手だが、オレに練り歯磨きを強制するのは止めろ」と命じたので、生産中止は撤回され、上海の国営工場で、毛沢東一人のためだけに細々と歯磨き粉の生産が継続された、ともあり<ref name="hok2005" />、湖南省韶山市の毛沢東同志記念館には曰くつきのその歯磨き粉が展示されているという。別の話では、毛沢東はお茶を飲んでいれば、虫歯をふせげると信じ、歯磨きをしなかった、そのために、彼の歯は茶渋で真っ黒だったという。これらの話では、歯とくに前歯が黒ずんだか、あるいは歯を失ったかで、それを見られるのを気にして、毛沢東は人前ではあまり口を開けなかったとされる。中には、伝えられるうちに緑茶を良く知らない西洋人によって変形したものと思われるが、緑茶という言葉からか、茶渋で黒ずんでいたではなく、「まるで口内に緑色のペンキが塗ってあるよう」だったとなっている話もある<ref>{{Cite web |和書|url=https://gendai.media/articles/-/56409 |title=毛沢東が人生で一度も歯を磨かなかった呆れた理由 |access-date=2022-06-17 |website=週刊現代}}</ref>。
* 毛は共産党の正統性を宣伝するため[[魯迅]]を利用したことで中国での名声が高まった。本人は特に[[阿Q正伝]]を気に入っており、談話でしばしば「阿Q精神」を引き合いに出した<ref>{{Cite journal|和書|author=小山三郎 |date=1989-03 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00540001-0194 |title=毛沢東の魯迅評価について |journal=藝文研究 |ISSN=0435-1630 |publisher=慶應義塾大学藝文学会 |volume=54 |pages=194-216 |CRID=1050001338948820864}}</ref>。
* 毛沢東は[[呂蒙]]に感銘を受けた人物の一人であり、部下への訓告に際しては度々呂蒙の生きざまを引き合いに出している。彼自身、幾度も『呂蒙伝』を読み込んでおり、特に[[孫権]]が呂蒙の事を論じた『学門開益、籌略奇至(学問に懸命に取り組み、ずば抜けた策略を得るに至った)』という言葉を大いに気に入っていた。また、[[陳寿]]が評した『呂蒙勇而有謀』の六字を部屋中にびっしりと書き加えていたという逸話もある。1958年に安徽省へ視察へ出向いた際には、同行していた[[羅瑞卿]]や[[張治中]]へ「呂蒙は一兵卒として従軍し、驍勇にして胆略を有していたが、教養を持っていなかった。将軍となってからもそれは変わらず、軍事上の報告をする際には口述して書き写させていた。甚だ不便といえる。孫権が彼に書を読むよう勧めると、彼は軍務が多忙で時間が無いと言ったが、孫権は自らを引き合いに出し、ただやると決心する事が重要であり、時間など大した問題ではないと説いた。呂蒙は孫権の忠告を聞き入れ、刻苦しながらも自ら勉学に励み、数年の後には別人のようになった。そして後に東呉の将帥となり、数多の戦を勝利に導き、関羽を麦城へ敗走させたのだ。我が軍の高級官僚も十中八九が行伍(一兵卒)の出身であり、今になって教養を学んでいる。彼らは『呂蒙伝』を読まないわけにはいかぬ」と語った。また、その後もある時には「呂蒙は用兵を巧みにしてよく敵の心を攻めたが、もし節を曲げて書を読む事が無ければ、どうして東呉の将帥足りたただろうか。我ら解放軍には行伍が多い。『呂蒙伝』を読まねばならない」とも周囲に語っていたという。1972年には『呂蒙伝』の注釈書の作成を監修し、幾度も自ら指摘を行って修正させている。そしてこの際にも、呂蒙が出世してから本を読むようになった事を引き合いに出し、高級官僚に対して学問を学ぶ事の重要性を説いている。