削除された内容 追加された内容
m →‎上杉綱勝の毒殺: #上杉綱勝の毒殺 と内容同一のため削除
1,072行目:
また、浅野が切腹した後の当時の赤穂城とその城下町の様子を伝えるものとしては、赤穂城の受け取りの正使を務めた脇坂安照の家臣で、赤穂城で受け取りと在番の実質的指揮をとった龍野藩家老の脇坂民部の日記『赤穂城在番日記』が現存している。
この『赤穂城在番日記』には、当時の赤穂城の受け取りから脇坂民部らの在番が終わるまでの仔細が書かれている。日記には城の受け取りが終わり、脇坂民部らが在番となってから、赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っていることなどは書かれているが、赤穂の領民が改易となって喜んでいる様子などは書かれておらず、そうした様子が当時の赤穂で見られなかったことがわかっている<ref>白峰旬「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」</ref>。
 
===上杉綱勝の毒殺===
 
吉良上野介が上杉家を乗っ取るために[[上杉綱勝]]を毒殺し、吉良の息子の三之助に上杉家を継がせたという俗説がある。
 
三之助が上杉家を継いだというのは事実であるが、そのために綱勝を毒殺したという説には「何ら確かな史料的根拠がない」<ref name="miyazawaa90">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p90</ref>。この毒殺説は[[三田村鳶魚]]が『元禄快挙別録』の中で述べた説であるが<ref name="miyazawaa90" />、鳶魚は後にこの説を撤回している<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p160</ref>。
 
『藩翰譜首書』には「綱勝、吉良の宴に赴き、帰路興中にて血を吐き、後七日卒す」と書いてあり、毒殺説はこれを吉良が宴の際に毒を盛ったため綱勝が死去したと曲解したものである<ref>[[#尾崎(1974)|尾崎(1974)]] p65</ref>{{要高次出典|date=2015年8月}}。
 
また、綱勝が死去したからといって吉良が上杉家を乗っ取れるとは限らない。結果として吉良の息子が養子に入り上杉家を継ぐ事にはなったが、綱勝の死去の時点では吉良家は複数ある養子候補のひとりに過ぎなかったからである<ref>[[#尾崎(1974)|尾崎(1974)]] p69</ref><ref>『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(今井敏夫)</ref>{{要高次出典|date=2015年8月}}。
 
=== 上杉挙兵の制止 ===