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{{政治家
| 各国語表記 = あらふね せいじゅうろう
| 画像 =
| 画像説明 =
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = [[1907年]][[3月9日]]
| 出生地 = {{Flagicon|JPN}} [[埼玉県]][[秩父郡]][[高篠村 (埼玉県)|高篠村]](現[[秩父市]])
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1907|3|9|1980|11|25}}
| 死没地 = [[神奈川県]][[相模原市]] [[国立病院機構相模原病院|国立相模原病院]]
| 出身校 = [[明治大学]][[大学専門部 (旧制)|専門部]]中退
| 前職 =
| 所属政党 = ([[立憲政友会|立憲政友会]]→)<br />([[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]→)<br />(無所属→)<br />([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]→)<br />[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
| 称号・勲章 = [[正三位]]<br/>[[勲一等旭日大綬章]]<br/>[[褒章|紺綬褒章]]<br/>[[永年在職議員|衆議院永年在職議員]]
| 子女 = 長男・荒舩洋資([[埼玉県議会|埼玉県議会議員]]・[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]選手)
| 配偶者 =
| サイン =
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| 内閣 = [[三木内閣 (改造)|三木改造内閣]]<hr/>[[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫改造内閣]]
| 就任日 = [[1976年]][[9月15日]] - [[1976年]][[12月24日]]<br/>[[1977年]][[11月28日]]
| 退任日 = [[1978年]][[12月7日]]
| 国旗2 = JPN
| 職名2 = 第49代 [[衆議院議長#国会(日本国憲法)|衆議院副議長]]
| 就任日2 = [[1970年]][[1月14日]]
| 退任日2 = [[1972年]][[1月29日]]
| 元首職2 = [[衆議院議長#国会(日本国憲法)|衆議院議長]]
| 元首2 = [[船田中]]
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| 当選回数3 =
| 就任日3 = [[1966年]][[8月1日]]
| 退任日3 = 1966年[[10月14日]]
| 国旗4 = JPN
| 職名4 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]
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「清十郎」は先祖代々の襲名で、本人は16代目にあたる(以後は襲名者は出ていない){{sfn|小川|1985|p=189}}。ほとんどのメディアでは「荒'''船'''」と表記していたが、「荒'''舩'''」が正しく、本人は誤記されると怒ったという{{sfn|小川|1985|p=189}}。先祖は鎌倉で船大工をしており、公家の船しか作らなかったため「舩」の字を用いた、とされる{{sfn|小川|1985|p=189}}。
 
秩父銀行頭取となった後、[[荒川 (関東)|荒川]]の洪水を防ぐために[[霞堤]]の取り壊し運動をするも当局の取り締まりにかなわず断念、政治によって解決できると確信して政界を目指す<ref name="kokkai" />。[[1937年]](昭和12年)4月、高篠村会議員。[[1940年]](昭和15年)1月、立憲政友会に所属で[[埼玉県議会|埼玉県会]]議員に初当選{{sfn|小川|1985|p=204}}。[[1944年]](昭和19年)11月から[[1945年]](昭和20年)11月まで副議長{{R|新訂}}。[[1943年]](昭和18年)から[[1945年]](昭和20年)まで高篠村村長<ref name="kokkai" />。[[1946年]](昭和21年)[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]公認で[[第22回衆議院議員総選挙]]に埼玉県全県区から立候補して初当選{{R|新訂}}<ref>『衆議院議員総選挙一覧 第22回』431頁。</ref><ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年、61頁。</ref>。その後、[[1947年]](昭和22年)3月に[[公職追放]]を受け失職したが、[[1950年]](昭和25年)10月に追放を解除され、[[1952年]](昭和27年)10月、[[第25回衆議院議員総選挙|第25回総選挙]]で[[埼玉県第3区 (中選挙区)|埼玉県第3区]]から[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]所属で出馬して返り咲き当選を果たす{{sfn|小川|1985|p=204}}<ref>『国政選挙総覧:1947-2016』80頁。</ref>。保守合同後は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[石井派]]に属していたが、[[第28回衆議院議員総選挙|第28回衆議院議員総選挙後]]に[[大野伴睦]]([[睦政会]])派に移り<ref>{{Cite book|和書 |title=派閥ー保守党の解剖ー |year=1958 |publisher=弘文堂 |page=140 |author=渡辺恒雄}}</ref>、大野没後は[[交友クラブ|川島派]]を経て[[交友クラブ|椎名派]]に転じた。党役職としては副幹事長、総務会副会長、顧問を歴任<ref name="kokkai" />。
 
[[1955年]](昭和30年)12月、高篠村立高篠中学校敷地として土地を寄付により[[1957年]](昭和32年)4月24日[[褒章|紺綬褒章]]受章、功績顕著として木杯一組台付を賜った<ref>『官報』第9099号598頁 昭和32年4月25日号</ref>。
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[[第64回国会|公害国会]]を経て、混入物質の濃度を示す単位の[[ppm]]が環境汚染の指標として盛んに使われていた頃、荒舩はppmを汚染物質そのものと勘違いしていた。空気のきれいな当時の北京の空港に降り立った際に「ここはppmがないなあ」と言って同行の[[竹下登]]を呆れさせている。そんな荒舩だが環境議員連盟には真っ先に参加。竹下がからかって「今後、この議連は上級・中級・初級に分けます。[[橋本龍太郎|橋本]]君は上級、[[海部俊樹|海部]]君は中級、君(荒舩)は初級だ。」というと、「それはそうだな。おれは何も分ってないんだからな。」と素直に応えたという<ref>竹下登『政治とは何か 竹下登回顧録』 第7章2節 pp. 189-190.</ref>。
 
=== 川島正次郎との関係 ===
荒舩は川島のことを「生涯の師」と仰ぐ<ref>「グラビアー目で見る私の履歴書ー衆議院議員荒舩清十郎」”. 『政経人』 25(7). (1978).</ref>一方、川島も荒舩のことを評価していた<ref>{{Cite book|和書 |title=政界一寸先は闇 : ある川島担当記者の手記 |year=1972 |publisher=黄帆社 |page=109 |author=小畑伸一}}</ref>。
 
当時立憲政友会で埼玉県青年部長をしていた荒舩は、裕福な家の出身であったこともあり1939年(昭和14年)9月に実施される<ref name=":0">「無競争当選は27名 あす多額議員選挙施行/多額議員無競争当選者<表>」『朝日新聞』1939年9月9日、2面</ref>[[貴族院 (日本)|貴族院]][[議員]][[多額納税議員]]に立候補しようとしていた。しかし、立候補を予定していた[[松本真平]]、[[岩田三史]]は何れも政友会の所属であった<ref name=":0" />ため、荒舩の出馬に伴う共倒れを怖れ、関東全体の選挙区を調整する役目にあった[[鳩山一郎]]が秩父に赴き出馬を取りやめるよう説得に当たったが、荒舩は承知しなかった。そこで、候補者が[[前田米蔵]]の系統ということもあり、前田の代理として川島が秩父へと派遣されることとなった。秩父に着いた川島は、出迎えた荒舩に料理屋へ案内させると[[芸者]]を呼び、どんちゃん騒ぎをした。そして、「荒舩クン、貴族院議員は7年だが、一回やればそれで終わりだ。もっと長い方を選んだらどうだい。お互い若いんだから一緒にやろうや。ボクも前田もキミを応応援するよ」「君のような三十歳になったかならないかの若いものが多額納税議員に出るのは自殺行為だ」「この次は必らず〔ママ〕衆議院に公認するから」などと諭し続けた。これを受け、荒舩は貴族院議員に出馬することを諦め、埼玉県会議員に出馬することとした<ref>荒舩清十郎「親不孝な子」『川島正次郎』交友クラブ、1971年、23-24頁。</ref><ref>小畑伸一『政界一寸先は闇 : ある川島担当記者の手記』黄帆社、1972年、185-186頁。</ref>。
 
1962年(昭和32年)[[岸派(自民党)|岸派]]が分裂する際に、川島の承諾を得ることなく川島を中心とする派閥を結成するために動き出し、一度は資金面で適正規模とされた25人を集めることに成功した。しかし、実際に11月8日に行われた結成大会に集まったのは12人に過ぎず、荒舩は2週間にわたり、[[松沢雄蔵]]らとともに奔走し26日に再び行われた結成大会では19人を集めた<ref>小畑伸一『政界一寸先は闇 : ある川島担当記者の手記』黄帆社、1972年、43-44頁。</ref>。
 
=== 衆議院予算委員長として ===