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|没年 =文王15年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]<br/>([[紀元前675年|前675年]][[6月17日]])
|父 =[[武王 (楚)|武王]]
|母 =[[鄧曼]]
|皇后 =丹姫<br>[[息嬀]]
|陵墓 =
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== 生涯 ==
[[武王 (楚)|武王]]と[[鄧曼]]のあいだの子として生まれた。武王51年([[紀元前690年]])、武王が薨去すると、後を嗣いで楚王となった。文王2年([[紀元前688年]])、文王は軍を率いて申を攻撃した。途中に[[鄧]]に立ち寄ったさい、鄧の三甥による文王暗殺計画があったが、鄧の祁侯が三甥を止めたため実行されなかった。文王6年([[紀元前684年]])、軍を発して[[蔡]]軍を莘で撃破し、蔡の[[哀侯 (蔡)|哀侯]]を連れ帰った。文王10年([[紀元前680年]])、文王は蔡の哀侯の甘言に乗って息を攻め滅ぼし、[[息嬀]]を連れ帰ったが、哀侯に踊らされたことに気づくと、蔡に攻め入った。文王12年([[紀元前678年]])、軍を発して鄧を攻撃し、これを滅ぼした。この年の秋、[[鄭]]を攻撃して櫟に達した。
 
文王14年([[紀元前676年]])、[[:zh:巴国|巴]]人が楚の権邑を占領した。権邑の尹の閻敖が逃亡したことから、文王は閻敖を処刑した。このため閻敖の一族が反乱を起こし、巴人はこれにつけこんで楚に侵攻した。文王15年([[紀元前675年]])春、文王は巴軍を迎撃したが、津で大敗した。引き返すと、鬻拳が入城させないため、やむなく黄に転進して、黄軍を踖陵で撃破した。凱旋の途中、湫で病にかかり、6月庚申に薨去した。在位15年。
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===妻===
*丹姫
*[[息嬀]] - 陳の公女
===子===
*[[荘敖|堵敖]] - 息嬀の子
*[[成王 (楚)|成王]] - 息嬀の子
*文羋 - [[鄭]]の[[文公 (鄭)|文公]]にとついだ
*{{仮リンク|江羋|zh|江芈}} - 江の国君にとついだ
 
== 参考文献 ==
* 『[[史記]]』楚世家
* 『[[春秋左氏伝]]』[[荘公 (魯)|荘公]]6年、10年、14年、16年、18年 - 19年
 
{{先代次代|[[楚 (春秋)|楚]]の王|紀元前690年 - 紀元前675年|[[武王 (楚)|武王]]|[[荘敖|堵敖]]}}