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}}
'''武王'''(ぶおう)は、[[中国]]の[[春秋時代]]の[[楚 (春秋)|楚]]の君主。[[姓]]は'''羋'''、[[氏 (中国)|氏]]は'''熊'''。[[諱]]は'''徹'''<ref>[[清華簡]]『楚居』による。『[[史記]]』楚世家が熊通とするのは、[[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の[[避諱|諱を避けた]]ためと考えられる。</ref>。[[文王 (楚)|文王]]の父
 
== 生涯 ==
[[霄敖]]の子として生まれた。[[紀元前741年]]、兄王の[[蚡冒]]が死去すると、兄の子を殺して即位した<ref name="soseika">『史記』楚世家</ref>。武王35年([[紀元前706年]])、随を攻撃した<ref>『[[春秋左氏伝]]』[[桓公 (魯)|桓公]]6年</ref>。武王37年([[紀元前704年]])、沈鹿に諸侯を召集し、参集しなかった黄と随を攻撃した<ref>『春秋左氏伝』桓公8年</ref>。[[周]]の[[桓王]]に昇爵を要求したが拒否され、王号を自称した<ref name="soseika"/>。武王38年([[紀元前703年]])、[[:zh:巴国|巴]]とともに鄾を包囲し、鄧軍を撃破した<ref>『春秋左氏伝』桓公9年</ref>。武王41年([[紀元前700年]])、絞を攻撃して破り、和を結んで凱旋した。<ref>『春秋左氏伝』桓公12年</ref>。武王42年([[紀元前699年]])、[[屈瑕]]に羅を攻撃させたが、楚軍は敗れて、屈瑕は自殺した<ref>『春秋左氏伝』桓公13年</ref>。
 
武王51年([[紀元前690年]])、随を攻めた際に病没した<ref>『春秋左氏伝』荘公4年</ref>。