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引退後はロッテ[[千葉ロッテマリーンズ (ファーム)|二軍]]投手コーチ([[1987年]] - [[1988年]])を務めたほか、[[2001年]]には[[プロ野球マスターズリーグ]]の東京ドリームスにも所属。
 
ロッテコーチ時代の1988年にはオリオンズの自主トレで遠目から[[伊良部輝]]をじっと見つめ<ref>[[田崎健太]]『球童 伊良部秀輝伝』[[講談社]]、[[2014年]][[5月10日]]、ISBN 4062188945、p73。</ref>、キャンプではブルペンで伊良部とキャッチボールをし、立ったまま、低めの球を捕るのは怖さを感じるほどで、堪らず捕手を呼んだ<ref name="伊良部秀輝伝p74">『球童 伊良部秀輝伝』、p74。</ref>。金田は兄の全盛期を知らなかったため、「もしかして兄はこんな球を投げていたのかもしれない」「こいつは性格がどうのこうの言われているけど、そんなものはどうでもいい。こいつを早く一軍で投げさせて、日本のエースにせないかん」と思った<ref name="伊良部秀輝伝p74" />。開幕後は二軍に降格し、非力な打者に軽々と球を飛ばされていた伊良部を見かねて「真っ直ぐだけじゃ駄目だ。このままじゃただ速いだけの投手で終わってしまう」と自身のカーブを伝授し、1週間ほどカーブを徹底的に投げ込ませた<ref name="伊良部秀輝伝p75">『球童 伊良部秀輝伝』、p75。</ref>。二軍戦の試合前には[[徳武定祐|徳武定之]][[二軍監督]]に「今日、伊良部には半分カーブを投げさせようと思ってます。あいつのカーブはまだストライクが入らない。何点獲られるか分かりません。それでも5回までお願いします」と頼み、徳武は「よし分かった」と快諾<ref name="伊良部秀輝伝p75" />。この試合で伊良部のカーブはストライクゾーンに決まり<ref name="伊良部秀輝伝p75" />、カーブの後のストレートが効果的で、緩急の差があるため、打者は対応できなかった<ref name="伊良部秀輝伝p76">『球童 伊良部秀輝伝』、p76。</ref>。徳武が我慢するまでもなく伊良部は5回を投げ切り、徳武が 「ほら、見ろ。金田ピッチングコーチのカープを覚えない限り、お前は普通のピッチャーだよ」と伊良部に言うと、金田は上機嫌になった<ref>『球童 伊良部秀輝伝』、p76。</ref>。 
 
その後は[[健康食品]]の会社を経営する傍ら、日本身体障害者野球連盟の支援をしており、チャリティーゴルフ会の開催にも関わった。正一が社長を務める菓子販売会社の専務も務めた<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に" />ほか、[[2013年]]に学生野球資格を回復し、同年から2018年まで[[東京都立総合工科高等学校]]外部投手コーチとして投手全般を指導<ref name="都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた">{{Cite web |title=金田留広の晩年 都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた |url=http://www.hb-nippon.com/2018/11/20181126no72gene/ |website=高校野球ドットコム |access-date=2023-09-20 |language=ja |date=2018-11-27}}</ref>。都立総合工科の前身・[[東京都立世田谷工業高等学校|世田谷工業]]の監督であった長嶺功が[[修徳中学校・高等学校|修徳高校]]グラウンドで金田と初めて出会い、金田が「元気があって面白いやつ」と長嶺を気に入り、それから付き合いが始まった。この出会いがコーチ就任の最初のきっかけであり、それから金田は都立総合工科のグラウンドに訪れると、長嶺と野球論を交わす日々を続けた<ref name="都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた" />。都立総合工科の校長が広島出身で、カープの連覇に貢献した金田は校長にとってヒーローであり、即就任となった<ref name="都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた" />。在任中は技術、トレーニングの指導、精神面でのケアを行ったほか、投手のトレーニングをする時には「金田塾にいくぞ!」といって選手達を厳しく鍛え、グラウンドにあるメニュー表には「金田塾」と記載されていた<ref name="都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた" />。