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その後、[[律令制|律令]]により国家祭祀としての体裁を整えていった<ref group="注釈">[[飛鳥浄御原令]]あるいは[[大宝律令]]において明文化されたと考えられている。</ref>。また、皇位継承儀礼に組み込まれ(''[[大嘗祭]]を参照'')、伊勢神宮の神事の形式を取り入れながら、宮中祭祀として続いてきた{{Sfnp|工藤隆|2017|p=17}}。
 
[[後花園天皇]]の[[寛正]]4年([[1463年]])に行われて以降、[[応仁の乱]]や朝廷の窮乏により長らく中断していたが、[[東山天皇]]の[[元禄]]元年([[1688年]])に[[霊元天皇|霊元上皇]]の強い意向により「新嘗御祈」という形で略式に再興(この前年の[[貞享]]4年([[1687年]]) に大嘗祭も再興)している。ただし祭場となる神嘉殿がないため、[[紫宸殿]]を代わりの場として用いた。ついで[[桜町天皇]]の[[元文]]5年([[1740年]])に元の形に復興し、[[光格天皇]]の[[寛政]]3年([[1791年]])には内裏の造営に伴って神嘉殿が再建された。その年以来、現在に至るまで毎年、[[宮中祭祀]]として続けられている<ref name="入江">入江相政『宮中歳時記』</ref>。
 
明治5年([[1872年]])から、新嘗祭に合わせて神宮([[伊勢神宮]])に勅使が遣わされるようになった。
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新嘗祭まで[[新米]]を口にしない風習が古代からあったが、[[第二次世界大戦]]後に衰退した<ref name="いろは">『神社のいろは』扶桑社</ref>。
 
現在も[[宮中祭祀]]として[[今上天皇]]の宮中における公務として新嘗祭は続けられている。
 
== 祭日 ==