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| 兄弟 =[[島津義久|義久]]、'''義弘'''、[[島津歳久|歳久]]、[[島津家久|家久]]
| 妻 =[[正室]]:[[北郷忠孝]]の娘<br />[[継室]]:亀徳([[相良晴広]]の娘)<br />継々室:実窓夫人(広瀬夫人、[[園田実明]]の娘)
| 子 =[[お屋地]]([[北郷相久]]室、[[島津朝久]]室)<ref name="さつま人国誌 戦国・近世編 2">{{Cite book|和書|author=桐野作人|authorlink=桐野作人|chapter=島津義弘の長女 御屋地の生涯(上)|title=さつま人国誌 戦国・近世編 2|date=2013|publisher=[[南日本新聞社]]}}</ref>、[[島津鶴寿丸|鶴寿丸]]、[[島津久保|久保]]、'''[[島津忠恒|家久(忠恒)]]'''、[[島津万千代丸|万千代丸]][[島津忠清 (佐志島津家)|忠清]]、御下([[伊集院忠真]]室、[[島津久元]]室)
| 特記事項 =
}}
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慶長5年([[1600年]])、徳川家康が[[上杉景勝]]を討つために軍を起こすと([[会津征伐]])、義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である[[鳥居元忠]]が籠城する[[伏見城]]の援軍に馳せ参じた。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、西軍総勢4万人の中で孤立した義弘は当初の意志を翻して西軍への参戦を決意した(『島津家代々軍記』)。
 
しかしながら、これは幕藩体制後の記録であり、実際は家康が上杉征伐のために出陣し、上杉征伐を行おうとしていた慶長5年([[1600年]])の7月15日に、義弘は[[上杉景勝]]に対して「[[毛利輝元]]・[[宇喜多秀家]]・[[前田玄以]]・[[増田長盛]]・[[長束正家]]・[[小西行長]]・[[大谷吉継]]・[[石田三成]]らが『秀頼様御為』であるので上杉景勝に味方する。そして、それに私も加わる。仔細は石田三成より連絡があると存します」という書状を送っており、この頃には、すでに西軍の首謀者の一人として、毛利・石田らと共に、反家康の動きに参加していた<ref>{{Cite journal|和書|author=[[白峰旬]]|title=豊臣公儀としての石田・毛利連合政権|journal=史学論叢|issue=46号|year=2016|month=3|pages=18-72}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[布谷陽子]]|title=関ヶ原合戦と二大老・四奉行|journal=史叢|issue=77号|year=2007|month=9|pages=166-183}}</ref>。
 
伏見城攻めで奮戦し、討死・負傷者を出した後、濃州垂井の陣所まで進出した義弘が率いていた兵数は、1000人ほどであった。そして、この時に、義弘が国許の家老の[[本田正親]]に宛てた書状で援軍を求めた結果、[[新納旅庵]]・[[伊勢貞成]]・[[相良長泰 (島津家臣)|相良長泰]]・[[大田忠綱]]・[[後醍院宗重]]・[[長寿院盛淳]]らを始めとした譜代衆と有志・志願者の390人ほどの兵が国許から上京し、合流した<ref name="kirino"/>。
 
[[石田三成]]ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]([[10月20日]])の作戦会議で義弘が主張した夜襲策{{Efn|義弘が夜襲を献策した理由は、寄せ集めの西軍では正面からの野戦で徳川軍と戦うことが危ぶまれ、家康の部隊は9月14日(10月20日)に到着したばかりで一部は追いついておらず(「十四日、内府(家康)、赤坂へ着陣……鉄砲衆・使番衆は赤坂へ夜中に着」(『[[慶長記]]』))、さらにこの時点で[[徳川秀忠]]率いる別働隊も到着していなかったため、この夜の内が好機であったとするもの。[[宇喜多秀家]]も夜襲策に賛成であったという。しかし百戦錬磨の義弘が危険を伴い下手をすれば追撃のおそれもある夜襲を献策するとは考えにくく、これに関しては後世の創作ではないかとする説もある(夜襲説の出典は『落穂集』だが、『朝野旧聞裒藁』の編者はこの部分を載せながらも、創作の可能性が高いとしている)。}}が採用されなかったりするなど、義弘が戦意を失うようなことが続いたと言われているが、これは後世に書かれた『落穂集』という二次的な編纂物にしか記載されておらず、また島津方の史料にも夜討ちに関する記事がほとんど見えないことから、この逸話は史実だと断じることはできない<ref>{{Cite book|和書|author=桐野作人|title=関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里―|date=2010|pages=107-112|publisher=学研パブリッシング}}</ref>。関ケ原直前には、[[黒田長政]]も義弘に調略の書状を送っている。その内容は婚姻関係を結ぶなど家康の計略と同じであった。
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== 人物・逸話 ==
[[File:Dai Nihon Rokujūyoshō, Satsuma Shinazu Hyōgo no Kami Yoshihiro by Yoshitora.jpg|250px|thumb|[[歌川芳虎]]「大日本六十余将」より『薩摩品津兵庫守義弘』]]
* 家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、'''島津四兄弟'''(義久、義弘、歳久、[[島津家久|家久]])の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『[[樺山忠助|樺山紹劔]]自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
* 敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を[[高野山]]に建設している。
* 祖父・[[島津忠良]]から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
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* 慶長4年([[1599年]])、剃髪・入道し'''惟新斎'''と号したがこれは祖父・忠良の号・'''日新斎'''にあやかったものである。
* 木崎原の戦いにおいて[[伊東祐信]]、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。[[姶良市]]に墓と墓碑が建てられている。
* 慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の[[ネコ|猫]]を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の[[仙厳園]]にある「猫神神社」である<ref>{{Cite book|和書|author=[[須磨章]]|title=猫は犬より働いた|date=2004|pages=145-149|publisher=柏書房}}</ref>。
* 晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
* 関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「[[大坂城]]で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『[[惟新公関原御合戦記]]』)。
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* 義弘には5男2女がいたが、家久以外の男子4人は早世している。
*正室:[[北郷忠孝]]の娘
** 娘:[[お屋地]]([[北郷相久]]室、[[島津朝久]]室)<ref name="さつま人国誌 戦国・近世編 2" />〔母:北郷忠孝の娘〕
* 継室:亀徳([[相良晴広]]の娘、後に[[上村長陸]]室)
* 継々室:実窓夫人(広瀬夫人、宰相夫人とも、[[園田実明]]の娘)
** 長男:[[島津鶴寿丸|鶴寿丸]](永禄12年(1569年) - 天正4年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]](1576年12月12日))〔母:実窓夫人〕
**:日向国[[加久藤城]]にて出生、同城にて早世。墓も加久藤城内に建てられている。
** 次男:[[島津久保]](天正元年(1573年) - 文禄2年9月8日(1593年10月2日))〔母:実窓夫人〕
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** 三男:[[島津忠恒|島津家久(忠恒)]](天正4年11月7日(1576年11月27日) - 寛永15年2月23日(1638年4月7日))〔母:実窓夫人〕
**:幼名:米菊丸。 通称:又八郎。島津家当主、初代薩摩藩主。
** 四男:[[島津万千代丸|万千代丸]](天正8年(1580年) - 天正16年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]](1588年3月20日))〔母:実窓夫人〕
**:[[喜入季久]]の嫡男・[[喜入久道|久道]]への[[養子]]縁組が決まっていたが、[[和泉国|泉州]][[堺市|堺]]にて早世。法名は湖月宗江。飯野(現・[[宮崎県]][[えびの市]])の[[長善寺 (えびの市)|長善寺]]門前にあった竜昌院に祀られるが、竜昌院はこれ以後、万千代丸の法号にちなみ宗江院と名を改める<ref>{{Citation|和書|editor=えびの市郷土史編さん委員会|title=えびの市史|date=1994|volume=上}}</ref>。
** 五男:[[島津忠清 (佐志島津家)|島津忠清]](天正10年(1582年) - 文禄4年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]](1595年8月9日))〔母:実窓夫人〕
**:幼名:長満丸。通称:久四郎。[[佐志家|佐志島津家]]初代当主。文禄2年([[1593年]])[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]に上洛したとの記録があるが、その2年後に享年14で病死。法名は蘭桂純香大禅定門。栗野(現・[[鹿児島県]][[姶良郡]])の徳光寺に葬られた。兄・久保に次いでわが子を四人も亡くした義弘夫人の嘆きは尋常ではなく、夫人の嘆き悲しむ姿に、お側小姓の松下源次郎が切腹で[[殉死]]している。享年15。忠清と源次郎の墓は、松尾城(湧水町)側の墓地に並んで建てられている。
** 娘:御下([[伊集院忠真]]室、[[島津久元]]室)〔母:実窓夫人〕
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== 関連作品 ==
;小説
*[[徳永真一郎]]『島津義弘』([[光文社]]光文社文庫・[[1992年]]12月) ISBN 4334716296、のち([[学陽書房]]人物文庫、[[2010年]]9月)ISBN 9784313752641
*[[加野厚志]]『島津義弘』([[PHP研究所]]PHP文庫、[[1996年]]12月) ISBN 456956965X
*[[池宮彰一郎]]『島津奔る』上下巻([[新潮社]][[新潮文庫]]、2001年5月) 上巻ISBN 4101408165 下巻ISBN 4101408173
*[[江宮隆之]]『島津義弘』(学研M文庫、[[2004年]]5月)ISBN 4059011622
*[[荒川佳夫]]『戦国維新 島津東征伝』全3巻(学研歴史群像新書、2004〜2006年) 第1巻ISBN 4054026761 第2巻ISBN 4054028640 第3巻ISBN 4054030572
 
; テレビドラマ
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* {{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|title=島津義弘の賭け|date=2001-10|series=中公文庫|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4122039096}}
* {{Citation|和書|author=|title=裂帛 島津戦記―決死不退の薩摩魂|date=2010|series=歴史群像シリーズ 戦国セレクション|publisher=学研|isbn=4056025959|ref={{SfnRef|裂帛 島津戦記}}}}
* {{Citation|和書|editor=[[新名一仁]]|title=薩摩島津氏|date=2014-2|series=中世西国武士の研究 第一巻|publisher=戎光祥出版|isbn=978-4-86403-103-5|ref={{SfnRef|新名|2014}}|year=|last=|first=}}
* {{Cite journal|和書|author=桐野作人|title=滅亡の淵に立たされた“内憂と外征”の十年 島津氏の朝鮮出兵|date=2014|journal=歴史群像|issue=128号}}