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慶長5年([[1600年]])[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]に[[伏見]]に参勤すべく佐土原を出立<ref name="honpan" />、無事に参勤を果たし帰国の暇乞いのため[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]に[[大坂]]へ下る<ref name="honpan" />。同年8月1日、義弘とともに西軍に属し、[[伏見城の戦い]]に参加。伏見城落城後の同年8月15日、伏見から[[石田三成]]の居城・佐和山に赴き、美濃に出陣。東軍が岐阜城を攻撃するとの情報により、石田三成は豊久に江渡ノ渡<ref group="注釈">長良川沿岸の岐阜市河渡という説あり。</ref>の防御を依頼。同年8月23日、岐阜城を陥落するが、敵が後ろを遮ろうとしているとの情報を耳にし、大垣城外楽田に撤退する。
 
[[関ヶ原の戦い]]が勃発すると伯父の義弘とともに西軍として参陣した。慶長5年(1600年)9月14日に、義弘は豊久を石田三成本陣に派遣し、赤坂在陣中の関東勢への夜討ちを提案するが、自軍は大軍なので日中広野で勝負を決すべしとして、三成は提案を却下されたといわれている。しかし、義弘は自らが提案した夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加しなかったといわれていたが、この逸話は『落穂集』という二次的な編纂物に書かれたものであり、また島津方の史料にも夜討ちに関する記事がほとんどみられないことから、史実だと断じるわけにはいかない{{Sfn|桐野|2010|p=107-112}}<ref group="注釈">[[元禄]]元年([[1688年]])に[[貝原益軒]]が著した『黒田家譜』の巻之十一には夜討ちの提言があったとする記述がある。</ref>。その夜、関ヶ原に陣替えし、9月15日の夜明け前に、雨天で濃霧のなか、石田陣から1町ほど隔てて布陣。それから1町ほど隔てた地に義弘も布陣している。豊久の備えには[[長寿院盛淳]]が来て、馬上で暇乞いをしたが、「今日は味方弱候得は、今日の鑓は突けましきぞ」と豊久は答え、互いに笑って別れている。石田三成の家臣である[[八十島助左衛門]]が使者として助勢を要請に来た際は、下馬せず馬上から申し出たことに家臣たちは「尾籠」だと悪口を言い、使者の態度に激怒した豊久も「今日の儀は面々手柄次第に可相働候、御方も共通に御心得候得」と怒鳴り返して追い返したと伝えられている。
[[image:Monument of Shimazu Toyohisa.jpg|thumb|関ヶ原の戦いでの島津豊久奮戦の地(烏頭坂)に立つ島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町)]]
乱戦の最中、義弘を一度見失った豊久は、涙を流しながら義弘はどうしているかと心配し、義弘とその後合流できたと伝えられている。やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立するかたちとなり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めた。しかし豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父義弘が生きて帰ることが必要だと感じ<ref name="honpan" />{{Sfn|桐野|2010|p=234}}、「島津家の存在は義弘公にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない」、「天運はすでに窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と述べ<ref>『惟新公関原御合戦記』</ref>撤兵を促した。これで意を決した義弘は、家康本陣をかすめるように[[伊勢街道]]方面へ撤退することにした(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において殿軍を務めたが、東軍の追撃が激しく島津隊は多数の犠牲を出した。[[井伊直政]]勢が迫り、鉄砲を一度放って、あとは乱戦。豊久は義弘の身代わり([[捨て奸]])となって、付き従う中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫ら13騎と大軍の中へ駆け入って[[戦死|討死]]した<ref name="honpan" />。[[薩藩旧記雑録]]には、「鉄砲で井伊直政を落馬させ、東軍の追討を撃退。島津豊久、大量に出血」という内容が記されている<ref>東京大学史料編纂所所蔵『薩藩旧記雑録』、慶応5年。</ref>。一説によると、豊久は重傷を負いながらも義弘を9km近く追いかけ、瑠璃光寺の住職たちや村長が介抱したが、上石津の樫原あたりで死亡し、荼毘に付されて近くの瑠璃光寺に埋葬されたという伝承があり、同寺には墓が現存している{{Sfn|桐野|2010|p=148}}。また、かなり早い段階で豊久の馬が、鞍に血溜まりがあり主を失った状態で見つかったとも伝えられている。いずれにせよこの豊久らの決死の活躍で、義弘は無事に薩摩に帰還することができたのであった{{Sfn|桐野|2010|p=235}}。
 
ただし、島津方では豊久討ち死にの確証を得ていなかったらしく、島津義弘は[[押川公近]]へ[[虚空蔵菩薩|三虚空蔵]]参りと称させて豊久の安否を探らせ<ref>{{Cite book |和書 |author= 桐野作人 |year= 2011 |title= さつま人国誌 戦国・近世編 |publisher= 南日本新聞社 |page = 132}}</ref>、公近は諸国を3ヶ年遍歴している<ref name="honpan" />。豊久の法名は『天岑昌運』。ちなみに、岐阜市歴史博物館蔵の『関ヶ原合戦図屏風』には馬上で采配をふる豊久の姿が描かれている。
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また慶長7年([[1602年]])生まれの甥の[[島津久敏]]がおり、久敏の父で豊久の義弟にあたる[[島津久信]]が以久死後の佐土原藩主相続を辞退している。
 
豊久の鎧は永吉島津家当主・[[島津久芳]]が[[安永 (元号)|安永]]6年(1777年)に入手し、永吉島津氏の菩提寺・[[天昌寺]]に納められたとされており<ref>「永吉[[島津家文書]]」一四三号</ref>、現在は[[尚古集成館]]に保管され<ref>「[http://www.shuseikan.jp/word/simadzu08.html 島津豊久]」 尚古集成館。</ref><ref>{{Cite news | title=さつま人国誌「島津豊久の最期と埋葬地・下」|url= http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=5579 | date=2014-01-13 | newspaper=南日本新聞 }}</ref>、[[日置市]]中央公民館にはその写しが展示されている。
 
== 人物・逸話 ==
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; 書籍
* {{Cite book |和書 |author= 桐野作人 |authorlink= 桐野作人 |year= 2010 |title= 関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里― |publisher= 学研パブリッシング |ref = {{SfnRef|桐野|2010}}}}
*{{Cite book|和書 |author=[[新名一仁]] |authorlink= |translator= |title=[https://www2.lib.pref.miyazaki.lg.jp/?action=common_download_main&upload_id=2405 島津家久・豊久父子と日向国] |page= |publisher=[[宮崎県]] |location=[[宮崎県]] |year=2017 |isbn= |ref=harv}}{{naid|40021557512}}
 
; 史料