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=== 文官時代 ===
[[File:Imperial Palace Tokyo Sakashita Mon and Imperial Household.JPG|thumb|left|250px|宮内庁庁舎とその前に広がる[[皇居]]の[[堀]]{{efn2|林は宮内庁次長を務め、[[昭和天皇]]の側近になった。}}]]
学士号取得後、1929年に[[内務省 (日本)|内務省]]へ入省し{{sfn|华|2014|p=24}}、同年[[富山県庁]]に配属された。その後、32年に[[京都府]]の、35年に[[神奈川県]]の社会課長を務める{{sfn|柴|2002|p=321}}。41年3月以降は[[企画院]]へ出向し{{sfn|池田|1997|p=364}}、42年には同院第一部第一課課長となる。翌43年に内閣参事官と内閣法制局参事官を兼任し{{sfn|柴山|2002|p=321}}{{sfn|日本官界情報社|1963|p=856}}、その翌年の44年には内務監察官、内務省地方局総務課長、行政課長等を次々歴任する{{sfn|柴山|2002|p=321}}{{sfn|大霞会|1987|p=533}}。
 
1945年、内務大臣秘書官兼大臣官房人事課長を務めた後{{sfn|日本官界情報社|1963|p=747}}、同年10月に、地方首長として史上最年少となる38歳の若さで[[鳥取県知事]]に就任し{{sfn|华|2014|p=24}}{{sfn|鳥取県|1969|p=677}}、約1年間務める。任期満了後の47年2月に地方局長へ転任するも{{sfn|Kowalski|Eldridge|2014|p=68}}、これが内務省での最後の勤務となった。12月、日本を[[連合国軍占領下の日本|占領]]していた[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]](GHQ)によって内務省が解体されると、経過措置として閣議で臨時に設置された[[内事局]]の長官に任命されて翌1月に就任し、[[公安委員会]]発足までの間、内務省が所掌していた[[日本の警察|警察制度]]を引き継ぐ役割を担った{{sfn|Steiner|1965|p=77}}。
 
[[日本国憲法|憲法改正]]や[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]が行われた1948年6月から8月にかけて、宮内府{{efn2|1949年6月に[[宮内庁]]へ改組された。}}では異例の人事異動が相次いで行われた。特に、戦後間もなくの皇室事務を支えた[[大金益次郎]]侍従長と[[加藤進 (会計検査院長)|加藤進]]次長が共にその職を辞した{{sfn|茶谷誠一|2014|p=50}}。林は加藤の後任として8月に入府し、1950年まで次長を務め{{sfn|山内|杉原|浦田|渡辺|辻村|1998|p=452}}、[[昭和天皇]]の側近として{{sfn|鬼塚|2010|pp=231-240}}、当時天皇と顔を合わせて話すことのできる数少ない人物の一人となった{{sfn|Kowalski|Eldridge|2014|p=66}}。
 
=== 武官時代 ===
1950年6月の[[朝鮮戦争]]勃発後、[[在日米軍]]の多くが[[朝鮮半島]]へ赴き、日本の防衛に空白が生じつつあった。こうした背景から、GHQは戦後日本の再軍備自衛力の基盤して日本の新たな[[実力組織]]の原型となるを成す[[警察予備隊]]創設するなど、日本の再軍備検討し認める計画の策定を始めた{{sfn|华|2014|pp=21-23}}{{sfn|赫|关|姜|1988|p=188}}。しかし、[[国際連合]]の方針{{sfn|华|2014|p=25}}とアメリカの当初の占領政策によりの下、旧[[日本軍]]の将校は予備隊への参加が許されず{{sfn|中村|2008|p=49}}、隊幹部は内務省の文官と警察とに取って代わられた{{sfn|华|2014|pp=23-25}}。一方、[[吉田茂]]{{sfn|华|2014|p=27}}や[[ダグラス・マッカーサー]]も元軍人の就任に反対し{{sfn|Yoshida|Nara|Yoshida|2007|p=151}}、GHQ[[参謀第二部]](G-2、諜報部)部長の[[チャールズ・ウィロビー]]少将元[[参謀本部 (日本)|陸軍参謀本部]]作戦課長の[[服部卓四郎]]を指揮官候補に推薦した際には、吉田の激しい抵抗に遭った{{sfn|华|2014|p=27}}。このほか吉田は内閣軍事顧問を務めていた[[辰巳榮一]]内閣軍事顧問の就任については前向きな姿勢を示していたものの、辰巳も就任を拒否した{{sfn|Welfield|2013|pp=75-76}}。
 
1950年9月上旬、吉田は林警察予備隊の指揮官にすることを提案し{{sfn|Kowalski|Eldridge|2014|p=66}}、昭和天皇も、宮内庁次長として経歴実績持ち高く評価し、自らと親しくしが信頼を寄せていた林を任命するよう吉田にその意向を伝えた{{sfn|鬼塚|2010|pp=231-240}}。ただ、この問題ではアメリカの各機関の意見が分かれた。隊員募集を担当した{{sfn|Maeda|1995|p=25}}ウィロビー率いる参謀第二部は、服部ら旧軍将校に便宜を図って林の命案の成立妨害阻止ようとしたものの、この考えはGHQ内の他の関係者に共有されていたわけではなかった。特に、予備隊の人事を担当した[[民政局]](GS){{sfn|Maeda|1995|p=25}}局長の[[コートニー・ホイットニー]]准将や、隊の創設・訓練養成に寄与した{{sfn|华|2014|pp=21-23}}民事局分室{{efn2|name=CASA}}(CASA)室長の[[ホイットフィールド・シェパード]]少将、更に[[参謀第三部]](G-3、作戦部)は対立共に林への支持を表明た。林の指名はウィロビーの反対で1せとな月に亘って手続きは1長引いたが{{sfn|Kowalski|Eldridge|2014|pp=66-68}}{{sfn|Maeda|1995|p=31}}、指揮官を巡るその後のマッーサーと吉田の何週間の協議の末{{sfn|Welfield|2013|p=76}}、最終的に林が選ばれた{{sfn|Yoshida|Nara|Yoshida|2007|p=151}}
 
== 脚注 ==