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| education =
| alma_mater = [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]卒業
| awards = [[正三位]]<br />[[File:JPN Zuiho-sho 1Class BAR.svg|28px]] [[勲一等瑞宝章]]<br />[[File:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|28px]] [[勲一等旭日大綬章]]<br />[[File:Legion of Merit ribbon.svg|28px]] [[レジオン・オブ・メリット|勲功章]]
| nickname =
| allegiance = {{JPN1947}}
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==== 自衛隊期 ====
1954年7月1日に自衛隊と防衛庁が発足すると、保安隊及び[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]はそれぞれ[[陸上自衛隊]]及び[[海上自衛隊]]へ改組され、新たに[[航空自衛隊]]が発足した。同時に、陸海空三大部隊の上に統合参謀本部に当たる[[統合幕僚会議]](統幕会議)が設置され{{sfn|华|2014|p=54}}、初代[[統合幕僚会議議長|議長]]には林が就任したが{{sfn|Welfield|2013|p=406}}、これは自衛官の最上位であり、諸外国の陸海空軍総参謀長に相当する地位であった{{sfn|孙|1992|p=812}}{{sfn|郭|1966|p=64}}。林の指導の下、統幕会議は防衛庁長官の補佐機関として、三大部隊の統合防衛計画や後方補給計画、訓練計画の統一的な策定を支援する一方、陸海空各幕僚監部(各軍種参謀部)の作成する関連計画、自衛隊出動時の指揮命令の進行調整、[[ミリタリー・インテリジェンス|国防関連機密]]の収集、調査も担当した{{sfn|防衛研究会|1966|pp=255-256}}。
 
[[File:Japanese Defense Agency 1954.jpg|thumb|470px|left|[[防衛庁]]開庁式に出席する林(中央)<br />(1954年7月撮影)]]
林は議長として幕僚業務の指揮を執るだけでなく、日本の対外防衛協力や交流活動にも参加した。自衛隊発足直後、防衛庁は[[ミサイル]]開発と研究を重要議題と位置づけ、1954年8月には{{仮リンク|軍事援助顧問団|en|Military Assistance Advisory Group|label=在日軍事援助顧問団}}団長の{{仮リンク|ジェラルド・J・ヒギンズ|en|Gerald J. Higgins|label=ジェラルド・ヒギンズ}}少将と会見し、ミサイル攻撃への対応を学ぶため自衛隊の隊員をアメリカに派遣することについて意見交換を行い{{sfn|岡田|2009|pp=25-29}}、9月には[[アメリカ国防総省]]の招きで訪米。{{仮リンク|チャールズ・アーウィン・ウィルソン|en|Charles Erwin Wilson|label=チャールズ・ウィルソン}}国防長官、[[アーサー・W・ラドフォード|アーサー・ラドフォード]]統合参謀本部議長ら高官と[[ワシントンD.C.]]でハイレベル戦略会議を開き、[[在韓米軍]]再配備後の日本の実質的な防衛{{sfn|Hsinhua News Agency|1954|p=75}}や両国の合同軍事演習等の議題について討論を行ったほか、林も自衛隊の戦力増強のため、アメリカに大量の[[ジェット機]]や[[駆逐艦]]の供与を要請した{{sfn|Hsinhua News Agency|1954|p=170}}。1956年に日米が初めて[[戦域|戦域レベル]]の合同軍事演習を行った際には、東京の{{仮リンク|極東司令部 (アメリカ合衆国)|en|Far East Command (United States)|label=米軍極東司令部}}で作戦企画副参謀長を務める[[アーサー・トルドー]]中将と共に、それぞれ日米側の責任者を務めた{{sfn|Trudeau|1986|p=271}}。